松前慶広(まつまえよしひろ)蝦夷地の武将

 

松前慶広は北海道(蝦夷地)の戦国武将。

戦後期時代、末期に活躍しました。

 

北海道なんですねぇ。

江戸とか京都から見ると、ずいぶん端っこの方にあるなぁ〜って感じます。

そんな北辺の地に拠点を構える慶広。

 

ここまでくると、中央のほうで「〜の合戦」とか「〜の乱」なんて事があったとしても、もう関係ないんじゃない?って気がしますが、、、そんな事無いんですね。

(情報は入りづらかったそうです)

 

遠くても一応、京都の聚楽第にも行っているし、徳川家康なんかにも合っています。

 

文禄の役(朝鮮出兵)の時などは、わざわざ蝦夷地から肥前名護屋(佐賀県)まで来てくれたので豊臣秀吉もすっごい感動したらしいです。

「遠くから来てくれてありがとう」って。

 

代々、蝦夷地の代官

慶広の家系(もともとは蠣崎家、かきざき)は東北の安東氏の配下で昔から蝦夷地の代官を務めていました。

それから、1590年になって秀吉に直接会うチャンスがあってそこで独立OKのサインをもらいます。

 

その後、蝦夷地に出入りする船から税金を徴収する権利をもらい、交易の権限を一手に握りました。

(まぁ、それには「北海道の地をうまく治めてね」「外敵にも注意してね」という意味も含まれています)

 

また、陸奥国でクーデターが起こった時などはアイヌの人達と一緒に鎮圧のお手伝いに行っています。

秀吉との関係は良好な様でしたね。

 

 

 

松前藩スタート

 

さて、秀吉が死んだ後は徳川家康とのお付き合いです。

 

慶広はこの時初めて名前を「松前」と名乗るようになりました。

改めて、松前藩の当主として認められたからです。

(それまでは「蠣崎」の名前で出ています)

 

松前とは蝦夷地のアイヌ語の地名「マトォマエ」からとったもの。

 

以前は松平(徳川の旧姓)と前田(前田利家のこと)から一文字づつもらって「松前」にした、と言う説がありました。

面白いですね。利家と仲が良かったのかなぁ?

 

今どきは「マトォマエ」の方が主流の説です。

 

 

一万石の大名

 

家康に会った慶広は、蝦夷地(樺太も含む)のアイヌ交易を独占する権限を認められ福山城を造って正式に松前藩の藩主となりました。

 

1万石の大名です。

小さいですねぇ、ぎりぎり大名。

 

一万石って言っても、当時の北海道ではお米の生産をしていません。

そこで、蝦夷地の交易による儲けがだいたい一万石ぐらいに相当するかなぁと、見当をつけたのです。

 

ちなみにアイヌ交易の品目とは、毛皮(鹿やテン等)、干物(なまこ、あわび、こんぶ等)、ワシの羽、鮭等いろいろ。

和人の方からは米、鉄製品、お茶等が渡ります。

 

毛ガニとか、イクラは無理だったかなぁ?冷蔵保存出来たのかな?氷等で。

 

(※アイヌ交易では和人が取引でチョンボをするので度々トラブルの元になりました。恥ずかしいですね…)

 

 

 

享年69歳。力の限り生き抜いた。

 

松前藩の主となった慶広は、徳川家康には献上品として「オットセイ」をプレゼントしたという記録が残っています。

しかも、2回も。

気に入ってくれたんですね、きっと。

オットセイを食べたのか、飼ったのかは分かりませんが。。。

 

慶広は大阪夏の陣にも参戦して、家康に忠誠を尽くしています。

この時、まだ引退していなかったのですね。

当時、68歳。

頑張ってます。。。

翌年には死んでいますが。

 

※松前藩の領地は北海道のみならず、

さらに北方の樺太にまで及んだと言います。

あっち方まで行くと少数民族などが暮らしていたと思いますが、どうやって統治したんだろう?

 

 

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