戦国時代と言うと、関ヶ原の戦いで終了してしまった感がありますね。

しかし、大坂冬の陣、夏の陣も見逃せません。

これこそ戦国時代の総決算であり、時代が転換する決定的瞬間でもありました。

スゴイ顔ぶれ!大阪五人衆

 

大阪五人衆とは大阪冬の陣、夏の陣(徳川VS豊臣)

で活躍した豊臣側5人の武将達のこと。

 

真田幸村、長曾我部盛親、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登の5人。

かなり強烈な顔ぶれです。

 

関ヶ原の戦いで敗れた豊臣はそのまま徳川に従う事を良しとせず再び戦を交える事になりました。

それが大阪冬の陣(1614年)、夏の陣(1615年)

 

戦後、豊臣は徳川にずいぶん勢力を削がれてしまいましたが、金だけはもっていました。

 

そこで、財力にモノを言わせ全国から失業中の浪人たちをかき集め戦力としようとします。

するとその中に、幸村を始めとする強者達がいたんです。

 

これで、徳川と戦えるかもしれない…。

こうして豊臣軍にもエンジンがかかります。

 

 

今回はそんな豊臣を盛り上げた5人のヒーローたちを紹介します。

 

 

真田幸村

 

一発目は皆さんご存知の真田幸村。

天才武将の幸村

 

家康に「日本一の兵」と褒め称えられた猛者でしたが、大阪夏の陣では惜しくも首を取られてしまいます。

 

兵力の厚い徳川軍でしたが、幸村に本陣を突撃された時は家康もかなりヤバいと思ったらしいです。

ああ見えても家康はかなりの武芸者ですから、ただ怖かっただけじゃないんでしょうね。

 

この時、家康は改めて武田系の武将の強さを思い知らされました。

 

幸村は時代の荒波にもまれながら武田 → 徳川 → 豊臣と士官先を変えていきます。

 

関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣側)につき敗北。

その後は高野山に幽閉されていました。 

(高野山は寒すぎたので後で和歌山の九度山に引っ越し)

 

幽閉中はゆっくり過ごしていましたが、大阪で戦が起こる事を知り武将としてカムバックしてきます。

 

カムバックっていうか、脱走でもしたんでしょうね。

幽閉の身ですから。

 

 

後藤又兵衛

 

さて、2人は後藤又兵衛(またべえ)。

 

強いですよ、この人。

本田忠勝とか、可児才歳なんかと張り合えるレベル。

戦場のレジェンド。

 

又兵衛はもともと黒田家の家臣だったのですが…主君の黒田長政(黒田官兵衛の息子)と反りが合わなくて、黒田家から離脱。

 

離脱しても、又兵衛ぐらいのハイパー武将ならいくらでも士官先があるはずなんですが、徳川の時代になってからは、上からのお許しが無いと他の大名に入る事が出来ず、浪人生活

(勝手に武将を雇うと徳川からお仕置きを食らいます=奉公構え)

 

それは、かなり苦しい生活だったそうです…超貧乏でしたよ。

 

そんなタイミングで大坂の陣が起ころうとしている。

そして、豊臣が武将を募集していた。

(これから戦をやるんだから、豊臣には徳川のルールなんか関係なし)

 

「よっしゃ一丁、やってみるか…」

そんなワケで又兵衛が登場してきました。

 

又兵衛は颯爽とした武人で情けも深く、回りの人たちは「又兵衛さん、カッコいい…」と憧れてたそうです。

 

 

毛利勝永

 

3人目は、毛利勝永かつなが)。

 

勝永は生まれて来たのが遅かったので武将としての評価は決めかねるんですけど、大坂の陣では本田忠勝、榊原康勝、仙石忠政といた面々を蹴散らしています!

たぶん、すっごい強いんですよ「勝永」。

 

毛利勝永は関ヶ原の戦いでは西軍に従いたので、戦後は犯人扱い。

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でも、人望があったので山内一豊の領内で大事にしてもらっていました。

 

大坂の陣に参戦するときは悩んだそうです。

「自分が大坂に行ったら家族に迷惑がかかるかも…」と。

しかし奥さんは「私だって武将の女房です。それくらいの事は覚悟出来ているわ」

と励まし送り出してくれました。

(スゴイ奥さんですね)

 

ところで、毛利勝永は苗字は「毛利」なんですけど…もともとは「」さんです。

毛利輝元からお許しをもらってから「毛利」を名乗っていました。

 

 

 

長宗我部盛親

 

4人目、長宗我部盛親(もりちか)。

 

あの四国全土統一した長宗我部です。

と言っても統一したのは父さんの元親なんですが…。

盛親はその息子、後継ぎです。

 

それにしても、四国のチャンピオン長宗我部ですよ。

そんな家系のご子息が浪人となって戦に参戦するなんて、人生って分からないですねぇ。

 

盛親は大坂夏の陣で藤堂高虎の隊を殲滅しています。

やるじゃないか、盛親。

(盛親は大坂に来る前は塾の先生をしていました)

 

やっぱ、プロの武将ですよ。

やる時はやるんです。

 

 

明石全登

 

ラスト、5人目です。

明石全登(ぜんとう)。

 

全登は宇喜多家の武将でした。

軍師をやっていた人ですね。

しかし、宇喜多は関ヶ原で敗れたあと消滅してしまいます。

(主君の宇喜多秀家は八丈島に島流し)

 

行き場を失った全登はその後、息を潜めて隠れ家生活

 

やがて、大阪で戦が起こる事を知り豊臣側に参加。

武将としての再起を図ります。

 

全登はキリスト教を信仰してまして、大阪夏の陣では「キリシタン軍」を率いてかなり強かったそうです。

(そんなのあったんですねぇ)

 

全登のスゴイところは直に「家康の首」を狙いに行ったところです。

 

無茶苦茶な感じがしますが、家康も敵に攻め込まれた時は三方ケ原の戦い(信玄にボロ負けした戦)以来の恐怖を感じたそうですから、ちゃんと作戦として組み込まれていたんですね。

 

全登はあまり身分の高い武将では無いので、不明な所が多いです。

名前の読み方も「ぜんとう」でいいのか良くワカラナイ。。。

 

大坂の陣の後も生きているのか、死んでいるのかも分かりません。

一応、捜索しているんですけど見つからない。

 

戦で、もみくちゃにされ粉々になっちゃったとか、戦場を抜け出して東北の方へ脱出した等幾つかの説があります。

謎の武将です。

 

 

大坂五人衆は強かったけれど…

 

さて、全力を尽くして戦った大坂冬の陣、夏の陣でしたが、結果は徳川方の勝利に終わります。

やっぱり、兵力の差は大きかった。

3倍くらい違いましたからね。

 

籠城戦は兵力の差を埋めてくれるんですが、基本的に日本全国を敵にまわしている様なものですから援軍のサポートもないし…。

やっぱり、豊臣には不利な戦でした。

 

でも、個々の戦いでは豊臣だって負けてませんでしたよ。

 

幸村と盛親の攻撃は凄まじく、徳川のエース武将達をガンガンなぎ倒していきました。

 

勝永と全登も果敢に戦いました。

彼らが家康の本陣に突入して来た時は、かなりヤバい所まで攻め込まれたそうです。

 

又兵衛の戦いはちょっと残念でした。

連携ミスの連続で不利な戦いになり、又兵衛は討ち死。

(腰を鉄砲で射ち抜かれながらも、這いつくばって戦っていました)

 

しかも、対戦相手が伊達の「鬼小十郎」でしたので相当やりづらかった事でしょう。

万全でないと勝てる相手じゃないですから。

 

こうして、戦国時代は大坂の陣をもって幕が降ろされました。

 

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