【山県昌景】最強逸話!鬼か悪魔か?めっちゃ小さい武田の最強武将

山県昌景12武田信玄

武田四天王の一人に数えられる山県昌景

昌景が戦場に現れると、敵軍は恐怖で凍り付きます。

やたらと身長が低くて、赤い悪魔みたいな小男

 

山県昌景1

 

徳川家康が三方ヶ原の戦いで、ボロ負けして逃げ帰った時に絵師に描かせた肖像画。

恐ろしさで、惨めに顔がパニくってるあの絵。

あれは、昌景に追いかけらた家康の恐怖心を描いたものです。(諸説ありますが…)

 

12徳川家康

 

きっと、家康以外にも昌景が怖くてうんこ漏らした人は、他にも大勢いるはず?

今回は、そんな山県昌景が活躍した戦を3つほど紹介します。

 

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川中島合戦

武田家と上杉家が5回対戦した川中島合戦

その中で最も熾烈を極めた戦いは、4回目の川中島でした。

 

でも、この戦いは両軍が力をぶつけあったと言うよりは、パニック状態に近い合戦でしたね。

 

開戦前は、武田、上杉ともに策を練って準備していたですが、突然の濃霧に視界を遮られ、作戦どころでは無い…。

 

それで気が付けば、霧の中からいきなり敵軍が現れて、後はもみくちゃのドタバタの乱戦

 

こうなりゃ、指揮とか戦略の問題じゃ無く押しの強いほうが勝ち。

兵士達は戦況を見渡す事もままならず、目の前の敵を倒すのみ

 

山県昌景も、もちろんその中で戦っていました。

 

対戦したのは、上杉軍の柿崎景家

上杉随一のトップファイターであります。

 

柿崎景家11

柿崎景家

 

ある意味エース同士の戦い。

で、この勝負昌景のチョイ勝ち。

叩き潰すまではいかなかったけれど、武田軍の大方が劣勢の中で昌景だけは敵を蹴散らしてやります。

 

当時の戦況は、武田に不利過ぎて武田本軍までもが、ことごとく上杉に破られる始末。

さすがの信玄も「うわー、今日はボロ負けだこりゃ」

と諦めたほどでしたが、昌景の奮闘でだいぶ巻き返す事が出来ました。

 

柿崎景家も「山県昌景を潰すなら今がチャンス」

ぐらいに思ったでしょうが、逆に返り討ちを食らいます。

 

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三方ケ原の戦い

信玄 VS 家康の戦いです。

 

桶狭間で今川義元が討ち死してから勢力のパワーバランスが変わると、家康と信玄は急に敵対関係になりました。

信玄と家康はそれまで何度もやり合っていますが、三方ヶ原の戦いでは、決定的に力の差を見せつけられます。

(家康がお漏らしをしながら逃げ去ったと言う、あの合戦です)

 

昌景は三方ヶ原では右翼に陣を構えます。

そして、対するは徳川四天王の酒井忠次

 

そして、両者は正面からぶつかります。

ぶつかるんだけど…最初から昌景が優勢

 

酒井忠次だって強いんですよ。

徳川四天王ですからね。

「鬼酒井」と恐れられているんですが、昌景の勢いに押されて、そのまま後退。

 

さらに昌景は本田忠勝を蹴散らし(本田忠勝も四天王です)家康のいる本陣に突撃。

ここまで、たどり着くのに昌景隊だってそれなりに消耗しているはずなんですが、家康は怖くなってなって、逃げ出します。

 

前田慶次実在伝説最強?66

忠勝

 

まさに、それは恐怖のどん底だったそうです。

(逃げてもさらに追いかけられました)

 

以前から家康は、武田軍の強さを恐れてはいましたが、三方ヶ原戦いではそれを嫌と言うほど思い知る事となりました。

 

長篠の合戦

武田勝頼 VS 織田、徳川連合軍

 

信玄亡き後の大戦です。

この戦は、武田軍15000に対して織田、徳川軍38000

とちょっと兵力的に不利な一戦です。

 

それでも武田は戦いに挑みます。って言うか、挑んじゃった感じ…

武田の家臣たちは、勝頼に言ったんです。「今回だけは、適当に負けて早く帰りましょう。さすがに分が悪いですよ、勝頼さん…」

 

だけど、聞く耳持たずの勝頼。

無謀でした。

 

確かに、勝頼って戦は強いんです。

でも「負け方」を心得ていない。

(この辺に武将としての経験の差が出てきます)

 

長篠の戦11

 

さて、やると決まったら織田、徳川軍と対決です。

武田軍は設楽ヶ原に臨み、1575年5月21日早朝、連合軍に奇襲をかけます。

 

先鋒は、赤い甲冑で備えた山県昌景の部隊

 

これを徳川軍、大久保忠世の6000の軍勢が迎え討ちます。

(ちなみに昌景の勢力は1500。ちょっとキツイ?)

 

4倍も兵力に差があるとかなり戦いづらいんですが、昌景はうまく攻め込んで、戦局を有利に運びます。

 

しかしその時、織田勢の鉄砲隊が、正景をめがけ火を噴きます。

昌景を狙った弾丸は、乗馬していた鞍をブチ抜いて命中

壮絶な即死だったと言われています。

 

討ち死した昌景の首は、連合軍の「首帳」の筆頭に記録されました。

一番の強敵であるという意味で)

 

【首実検とは?】

 

その後の昌景

昌景は、長篠の合戦で討ち死。

武田家も天目山の戦いを機に滅亡します。

 

しかし、武田の武将たちは生き延びた者もあり徳川家康は、そんな彼らを喜んで迎え入れました。

(信長にはダメだと言われてましたが…)

 

家康はかねてよりの武田ファン

武田武将が自分たちの家臣になってくれるなんて、願ったり叶ったりなんです!

 

そして、井伊直政の部隊に組み入れ、直政自身も赤い甲冑をあつらえます。

赤く備えた甲冑は山県昌景へのリスペクト?

 

井伊直政11

 

こうして、昌景の武将魂は次の時代に受け継がれていきました。

ある種、崇拝するような気持ちもあったかも知れません。

 

 

さいごに

戦国最強と言われた武田軍を、思いっきり支えた山県昌景。

織田信長も徳川家康も信玄の事は恐れていました。

 

しかし、信玄のどこが怖いかって言うと昌景が家臣としているからなんですね。

 

侍という人種は敵将であっても、健闘ぶりが良ければ「敵ながらあっぱれ」と褒めた耐えます。

ところが、昌景が対戦者に与える印象というのは常に「恐怖」。

 

昌景がやって来ると、戦場に悪魔が降り立った様に見えたそうです。

 

そんな昌景が自らの強さの秘訣を語ったことがあります。

それは「初心が大切、油断は大敵」とのこと。

 

頭の中身は意外と普通の人なんですね…

 

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