福島正則【減封】49万石⇒4万5千石:関ヶ原では大功労だったのに

11福島正則中部の武将

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福島正則ってこんな人

 

福島正則は豊臣家臣最強猛将

メッチャ強いです。

戦が強い、それだけが取柄

ピッチャーで言うと、豪速球ストレートしか投げられないタイプ。

心も体も真っ直ぐな人です。

思いっきり、体育会系人間。

 

 

秀吉に仕える

正則は豊臣秀吉の従兄弟に当たる血筋で、早くから秀吉に仕えています。

 

戦のデビュー戦は三木城の戦い(1578年)と言われていますが、この時、いきなり有力武将の首を2個も取って来ました。

ものすごい人ですね。

 

さらに鳥取攻略、山崎の合戦、賤ケ岳の戦い、小牧長久手、小田原征伐…と武功をガンガン重ね、伊予今治10万石→清州24万石へと大大出世を遂げていきます!

(もともとは桶屋の息子なんですが)

 

そして、ここまでやって来たのはほぼ戦の強さだけ

絵に描いたような戦国武将です。

秀吉からの信頼も厚かった様です。

 

 

関ヶ原の戦いでは東軍

秀吉が死んでから、豊臣の内部は家康三成で主導権争いが始まります。

各大名はどちらに付くか悩みます…。

 

しかし、ついに決断の時が来ました。

石田三成が兵を挙げたからです。

 

その時、家康は会津討伐の途中でしたが、一緒にいた大名達を集めてこう言います。

「みんな奥さんとか子供が人質に取られて心配でしょ?

だから、ここから帰って三成の味方をしてもいいんだよ

後で恨んだりしないからさ、遠慮しないでね」と。

 

重たーい雰囲気の中、諸大名の皆さんが悩みます。

(当然ですよね)

 

すると、福島正則が口を開きました。

私は家康さんの方に付きます

三成が挙兵したのは豊臣の考えではないでしょう。

8歳の秀頼様が戦を仕掛けるなんて、考えられません。

兵を挙げたのはきっと三成の考えです。

だから、三成こそが裏切り者なんです」

 

正則この言葉を切っ掛けに、他の大名たちも続々と家康の味方になる事を決めました。

家康としては内心「よくぞ言ってくれた!」思ったでしょう。

 

そして、関ヶ原の合戦は…東軍の勝利

(もちろん、正則も大活躍。戦の達人ですから)

 

もしあの時、正則が「家康さんに付きます」と言ってくれなかったら、ヤバい所でした。

…と言う訳で、正則は一番の戦功者として広島49万石の所領が与えれました。

 

 

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お城の修理 → 大減封

関ヶ原の戦いで大幅加増をもらった正則は、超ウハウハと思いきや…そうでもなかったんですね。

と言うのは、正則は石田三成の敵ではあったんですが、豊臣の味方なのです。

 

だから関ヶ原では東軍に付いたけど、心の底から「家康派」ってワケじゃないんですね。

そこが問題。

 

よって、関ヶ原の後の大坂の陣で正則は戦に混ぜてもらえませんでした。

江戸で留守番係をやらされています。

 

大坂の陣は、モロ徳川 vs 豊臣ですからね。

そんな所に正則なんかいたら、いつ裏切るか分からない…。

そして、豊臣は大坂の陣で滅びますが、正則に対する疑いの目は向けられたまま。

 

そんなある日、洪水の被害で広島城が壊れてしまいます。

当然、早く直したいですよね?

 

で、徳川に広島城を修理する願書を出しました。

(勝手に直すと、軍事要塞を建設してると勘違いされますから)

 

しかし…待てど暮らせど修理の許可が下りない

「早くしてくれないかなぁ、雨漏りはするし石垣は崩れたままだし…」

痺れを切らした正則は、広島城を修理してしまいます。

 

すると、今度は「勝手に城をいじっただろ?」

と徳川からクレームが入ります。

 

「なんなんだ、こいつら?引っ掛けやがったな!」

正則は、こういうネチコチしたのがいやなんです。

思わず、ふて腐れてしまいます。

 

そしたら幕府からは「武家諸法度に違反しといてナニ?その態度は?」

と因縁を吹っ掛けられ…領地没収を食らいます!

 

で、4万5千石の信濃川中島に行けと言う…。

(まったく強引ですね)

 

だけどここで反論したら、それこそお取り潰しになってしまう。

受け入れるしかない ( ;∀;)

 

もちろん、福島の家臣達は文句ブーブーです。

正則は、そんな家臣にこう言いました。

我は弓なり、乱世のな用なり。今治世なれば、川中島の土蔵に入らるるなり」

(俺は乱世を戦う武将なんだ。平和な時代には川中島の土蔵に入れられちゃうんだなぁ)

 

無念の正則。

 

 

ライバルは加藤清正

 

福島正則加藤清正は、互いに尾張の出身で、年も近いし、勇猛系の武将。

ライバル的な存在でした。

 

賤ケ岳の戦いでは、清正の恩賞3000石に対し正則は5000石。

これに怒った清正は「3000石じゃいらない!返す」と言ってブチ切れたら、秀吉は清正にも5000石あげて、納得させたそうです。

(いいですね~、ライバル心剥き出しですよ!)

 

正則と清正は個人の武将としては、いい勝負なんですね。

でも、「大名の当主」という観点ではかなり差がでます。

 

清正の方は、熊本じゃあ神様みたいに皆から尊敬されています。

しかし、正則は川中島で全然人気ナシ

領民から「まさのり」と呼び捨てにされるし…。

 

一応新しい田んぼを造ったり、河川の工事をしたり、年貢を軽くしたりして市民生活に貢献してるんですけど、ダメだったんですね。

戦だけが取り柄の、正則でした。

 

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