戦国大名一覧【近畿編】足利、細川、浅井、豊臣…

近畿地方の戦国大名の簡単説明です。

目次をクリックして、お好きな大名に飛んでください。

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足利氏

室町幕府、将軍家の足利氏

清和源氏の流れを汲む一族で、平安時代からの歴史を持っています。

 

足利って言うぐらいですから、もともとは関東の大名。

栃木県足利市の足利。

でも、足利尊氏が室町幕府を開いてからは、それ以降京都を本拠地としています。

 

足利氏は将軍家なんですけど、だからって他の大名と比べて、特別何かが違うってワケじゃないです。

別に、上杉でも今川でも細川でも何でもいいんです、ちゃんと将軍やってくれれば…。

 

発足当時の室町幕府は、割りと統率力の緩い幕府で、地方の大名なども結構自由に生きてました。

しかし、3代目将軍義満になってからグイっと締め上げて、権力を集中

ここで、若干路線変更します。

(金閣寺+一休さんでお馴染みの義満)

 

義満の後はちょっとダラーっとして、6代目の義教でまた締め直します。

でも、そのやり方がきつ過ぎて、付いたあだ名は「万人恐怖」。

信長タイプの義教は、家臣の反感を食らって暗殺されました。

 

義教でたっぷり恐怖体験を味わった家臣達は「やっぱ、将軍は優しいほうがいいね」

と言う事で、それ用の将軍を作ったんです。

 

で、出来上がったのが8代将軍の足利義政

(銀閣寺の義政)

 

そうしたら、今度は緩すぎて国内はぐっちゃぐちゃ。

家臣達が勝手に行動し始めて、応仁の乱(1467年)が始まってしまいました。

 

そして、戦国時代に火がつくと足利将軍は、オモチャのような存在に成り下がります。

一応、幕府は15代将軍の足利義昭までは続きますが、9代目の義尚以降はお神輿状態。

 

 

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細川氏

細川氏は足利の親戚筋にあたる家系で、足利尊氏と共に戦い室町幕府の設立に力を尽くしてきました。

(発祥の地は三河国細川です)

 

それだけの関係ですから、幕府を開いてからは当然重臣のトップに君臨します。

強大な力を持ち、応仁の乱以降は細川と足利とどっちが偉いのか分からないくらい…。

 

だけど、細川家は将軍に取って代わろうとはしなかったんです。

足利を上手く担いで、下から権力を握るという作戦です。

(上下ひっくり返しちゃうと、敵が増え過ぎちゃいますからね)

しばらくは、これで上手くいってました。

 

ところが、戦国時代も本番になると、秩序も上下もカンケー無い風雲児が登場します。

織田信長です。

信長のお陰で、将来の見通しが全くつかなってしまいました。

(三好と戦っているくらいなら、まだマシでした)

 

また細川そのものも、お家の分裂騒動などが起こり…細川家は戦国の激流の中でフェードアウトしていきます。

 

江戸時代に入ると、細川忠興が熊本に肥後藩を開きますが、あれは細川の支流で本家とは別物なんですね。

 

浅井氏

浅井氏は、もともと京極家の家臣をやっていました。

室町時代の頃です。

 

しかし、応仁の乱が勃発すると京極家の内部で仲間割れが起こり、そのどさくさに紛れて浅井家は独立

近江国小谷(滋賀県長浜市)を独自に支配します。

 

その後、六角氏の影響を受けて主導権を奪われますが、15歳の若武者が立ち上がり浅井の主権を取り戻しました。

浅井長政の登場です。

 

長政は信長の台頭に応じ、お市の方(信長の妹)と結婚し織田家と同盟を結びます。

 

しかし、長政は朝倉家との付き合いを尊重したので、信長を裏切る結果となります。

 

そして浅井家は姉川の戦い、小谷城の戦いで敗れ、滅亡

ただ、奥さんと娘たちは織田方に助け出され、新たな人生を歩んでいます。

 

 

山名氏

山名氏は、清和源氏新田系の士族。

群馬県が発祥の地です。

 

鎌倉時代には、源頼朝の下で御家人をしていましたがその後、足利尊氏と共に室町幕府を打ち建てます。

そして、侍所四職というお偉い役を仰せつかります。

 

最盛期の山名氏は、中国地方を中心に11カ国もの守護をやっていました。

日本全国でも66カ国しかないのに、11カ国ってすごい。

でも、家中の内輪もめがこじれると3カ国に減ってしましたが…。

 

さらに、戦国時代に入ると尼子氏大内氏毛利氏赤松氏などに領地を散々食いちぎられて、因幡国(鳥取県)だけになってしました。

しかも、名前だけの主君であまり力はありません。

 

そして、それにトドメを刺したのが羽柴秀吉。

当時の山名氏の当主、山名祐豊(すけとよ)は秀吉の攻撃を受けた後で死に、その子息は逃げ切り一応助かるんですが…追い討ちを食らって、結局は秀吉の軍門に下ります。

 

豊臣(羽柴)氏

豊臣は、あんまり書くことないっす。

要するに秀吉の事なんで、特に説明も要らないですよね。

 

尾張国(愛知県)出身の木下藤吉郎が織田家に仕えてから

出世して、豊臣(羽柴)を名乗るようになる。

 

しかしその後、徳川家と対立すると大坂の陣で負けて豊臣本家は滅亡。

ポッと出て来て、あっという間に消えてしまいました。

 

大坂の陣のあとも「羽柴」の名を持つ武将はいたんですが、戦に負けてからは皆、羽柴をやめて他の名前に変えてしまった。

 

一説によると、秀吉は実は高貴な血筋を引く人であって、だからこそあそこまで出世できたという話も聞いたことがあります。

詳しい事は忘れちゃいましたが…。

今後その手の情報が入りましたら、皆さんとシェアしたいと思います。

ちょっと胡散臭いんですけど…。

 

蒲生氏

蒲生氏は、藤原氏の流れを汲む氏族。

平家に仕えた藤原惟俊が近江国蒲生郡(滋賀県)を収めたことが始まりとされています。

 

歴史の長い家系なんで、源頼朝とか足利尊氏にも仕えていた事があります。

その後は六角氏織田氏と所属を変えてきました。

 

蒲生氏郷の代になると、信長の娘さんを嫁にもらい秀吉からもずいぶん期待され、陸奥国会津92万石の所領を与えられました。

この時が蒲生氏のピーク。

 

しかし…氏郷はその2年後に病死。

蒲生家はその後、伊予国(愛媛県)で暫くは存続したのですが、後継ぎがうまく続かなくてお家断絶。

残念!

 

 

六角氏

六角氏は宇田源氏(宇多天皇の家系)の流れを汲む氏族で、鎌倉時代から近江国(滋賀県)周辺を治めていました。

 

六角氏のもともとの姓は「佐々木」であったのですが、京都の六角堂にお屋敷を持っていた事から「佐々木六角」称し、それがさらに変化して「六角」となります。

 

室町時代では六角氏は足利尊氏に仕え、将軍家から養子をもらったりして幕府との関係を強めました。

 

ところが…応仁の乱(1467年)が勃発すると幕府をめぐるの勢力は二つに別れてしまった!

そして、足利義尚が9代目の室町将軍になった日にゃぁ…六角氏は幕府の目の敵にされる始末。

将軍からの攻撃をくらって甲賀の山に逃げたり、京都の情勢に振り回されながら近江国を守ろうとします。

 

さて、この辺りから世の中は戦国時代と化していくんですが、六角氏もこれにもちろん参戦。

 

各大名はそれぞれの利害関係を鑑みながら、自分の都合のいい人を将軍に推挙して、より大きな実権を握ろうとします。

六角氏は足利義晴(12代)、足利義輝(13代)をサポートして将軍就任に尽力し、六角氏はピークを迎えます。

 

ただ、時代は戦国時代ですからねぇ…周辺の勢力も負けてはいないんです。

三好氏は攻めて来るし、浅井氏は裏切って独立しちゃうし・・・。

 

しかも、斉藤氏と同盟を組んだことや、重臣の家族を惨殺したことが家臣達の反感をかって、どんどん仲間が離れてしまった!

テンションの下がる近江の名家。

 

そしてそして、落ち込む六角氏に更なる不幸が舞い込みます。

尾張国から、殴り込みをかけて来た織田信長の登場です。

信長は、足利義昭を新将軍にブチ建てようと、京都を目指して突進して来ます。

 

そして「そうはイカンぞ、信長め!土足で近江の土地を踏ませるか!」

とばかりに、立ち上がった六角義賢でありましたが…ボロ負け

 

その後の義賢は、放浪生活を過ごした末、豊臣秀吉に御伽衆(話し相手)として仕え、その生涯を閉じます。

 

また、その他の六角氏の血筋に当たる武将たちは姓を「佐々木」と改め、加賀藩の藩士になったり、江戸幕府へ旗本として仕えました。

 

 

京極氏

京極氏は、六角氏と同じく宇田源氏系の家系。

宇田源氏系の佐々木氏流

そこまで、六角氏と同じ。

両者とも近江国(滋賀県)の氏族です。

 

北近江の京極氏、南近江の六角氏

ま、どちらも近江の氏族ですからね…ご先祖を辿るとどこかで合流しちゃうんです。

 

そんなワケで、京極氏の元々の姓は佐々木であります。

で、北近江の佐々木氏は、京都の京極にお屋敷を構えていたので「京極佐々木氏」と呼ばれ、後に「京極氏」と認知されます。

鎌倉時代の話ですね。

 

さて、時代が流れ室町時代に突入しますと、「バサラ大名」でお馴染みの京極道誉(どうよ)が登場します。

道誉は、足利尊氏に従い室町幕府の設立に大きく貢献しました。

 

で、その功績が認められ地位も、名誉もバコーンと一気にランクアップ。

幕府の重鎮を務め、従来の近江に加えて、出雲、若狭、飛騨…と6各国もの国を支配します。

 

ちなみに「バサラ」(ばさら・婆沙羅)とは、革新的っていうか、非常識っていうか、自由奔放っていうか…そういう意味です。

バサラ大名・京極道誉は、皇族や公家の人達にくそ生意気な態度を取るような変人でした。

 

でも、これは権力に靡かない、ブランド主義に染まらない、本質を追い求める、がための振る舞い。

反骨心の現れだったのですね。

道誉は変わり者でしたが、ただの変人でなく、実力も兼ね備えていたので、室町幕府で大きく地位を確立します。

 

さらに、道誉の孫の代(高詮・たかのり)になると、京極氏は「侍所四職」というお偉い役職にその名を連ねます。

 

そんな、栄華を誇った京極氏なんですが…

応仁の乱が勃発すると、風向きが変わって来ました。

 

応仁の乱の影響を受けて、京極家中に元々あった家督争いが表面化。

すると、統率力が低下し…家族や家臣の絆にヒビが入ります、バリバリと。

 

そうとなりゃ、尼子経久(出雲)や浅井長政(北近江)の出番です。

京極氏の支配下にあった有能な武将たちが、バンバン独立しちゃうんです。

「これ幸い」ってな感じで。

 

それでも、京極の主家は一応存続してるんですが…名ばかり社長で、パワー無し。

 

で、浅井家が織田信長に滅ぼされると…秀吉の傘下に入ります。

おお、何たることよ!あの京極氏が…

 

しかし、当時の京極の当主(京極高次)の妹(京極竜子)が救ってくれました。

 

竜子が秀吉の側室になったコネで、兄貴の高次が近江で大津城の城主になれたのです。

奇跡の復活。

かくして、京極は名家の体裁を保つことが出来ました。

竜子ありがとう!!

 

その後、関ヶ原の戦いに入ると、京極は徳川の東軍に付きます。

そして、大津での籠城戦が評価され若狭(福井県)に小浜城をもらます。

 

さらに、京極高次の弟(高知・たかとも)も東軍で頑張っていたので、丹後(京都)の田辺城をゲット。

 

その後の京極氏は、幕府から改易や転封なんかも食らいつつ、明治維新を迎えます。

明治時代に入ってからは、北海道で農場を開きました。

今の、北海道虻田郡京極町に。

 

京極の名が、地名に…素晴らしい!!

京極町にある「吹き出し公園」は、羊蹄山の湧き水が噴き出る観光名所になっています。

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