マニアックな九州戦国大名の簡単説明です。

サクサクっと読めますよ~。

目次をクリックして、お好きな大名に飛べます。

有馬氏

有馬氏鎌倉時代に、肥前国高樹郡(長崎県)有馬荘の地頭をしていた事が始まりとされています。

(藤原氏の末裔とか平氏の末裔なんて説がありますが、諸説あります=良く分らない)

 

有馬荘から始まってじわじわと領地を広げて来た有馬氏は、戦国時代に入ると島原半島一帯を治めるぐらい勢力に成長します。

 

しかし、有馬氏のパワーは領地の広さだけで測れません。

この時代の九州勢は、南蛮貿易ってヤツをやっていますからね。

 

ガッツリ儲かるんですよ、これが…。

もちろん、有馬氏もこれに手を染めていたワケです。

お陰で、ウハウハでした。

 

当時は、海外から火薬とか、絹糸とか、鉄砲とか、ガラスを輸入して…

日本からは刀とか、銀とか、漆器などを輸出。

 

この辺りが、有馬氏の黄金期でした。

有馬晴信のお爺さんの時代の話です。(有馬晴純

 

しかし、同じ九州内の大友、島津、龍造寺と言った勢力が拡大して来ると、だんだん肩身が狭くなってくる…。

 

隣には龍造寺がいて、今にも襲って来そうな予感。

そこで有馬氏は、島津に救援を求め助けてもらいました。

フー、危なかったぜ。

(本当にピンチでした…1584年・沖田畷の戦い)

 

ところが、今度は秀吉が攻めて来ます。

命の恩人、島津を潰しに。

 

しかし、有馬氏は秀吉側に就きます。

…賢明な判断ですね。

島津から豊臣に乗り換えたんです。

 

さて、関ヶ原の合戦が始まると、豊臣から徳川にチェンジ。

(厳密には豊臣内での戦なんですが)

賢明な判断です。

面白味はないけれど、着実に時代の荒波を乗り越えていく。

 

 

江戸時代になってから、晴信は岡本大八事件でトラブって改易&切腹を食らっています。

この時は、かなりヤバかった…。

しかし、晴信の息子は家康の養女を嫁にしていたので助かりました。

 

その後の有馬氏は藩主として、日向(延岡藩・宮崎県)→越後(糸魚川藩・新潟県)→越前(丸岡藩・福井県)と流れていきますが、明治維新までしっかり持ちこたえます。

 

 

小弐氏

小弐氏は、九州の太宰府の次官を代々務めて来た氏族。

(「小弐」という仕事をずっとしていたので、それが名前になった)

 

そして、室町時代になってからは筑前(福岡県西)、豊前(福岡県東)、肥前(佐賀県)の3国治める守護を担当するようになりました。

 

しかし、北九州の地は大内氏菊池氏との争いが絶えなくて、この頃の小弐氏の当主はほとんど戦死か暗殺などで命を落としています。

 

戦国時代に入ると、さらに大内の攻撃が増しおまけに龍造寺まで台頭して来る。

領地も、どんどん食いちぎられていきます。

 

心が折れそうになりながらも、何度もお家の再興を目指しますが1559年、ついに龍造寺隆信にトドメを刺されて小弐氏は終了。

 

龍造寺隆信は、もともと小弐氏の家臣だったのですが…これが下剋上というもの。

 

 

松浦氏

松浦党の松浦氏です。

源平合戦や元寇の時に活躍した松浦党。

海賊みたいな人達ですね。

 

松浦氏は嵯峨源氏の流れを汲む一族で肥前(佐賀県)松浦郡に住みつく様になってから、松浦氏を名乗るようになりました。

 

松浦の地域は海岸線が入り組んでいて、漁業が盛ん。

そして、その中から海系の武将グループが現れてきて「松浦党」と呼ばれるようになります。

 

海の武将なので、水軍家業もやるんですが貿易業にも手を出しています。

明や朝鮮との貿易では、とてつもなく儲かったそうです。

 

戦国時代に入り日本統一が進むと、松浦氏は秀吉に臣従し朝鮮出兵で大活躍をします。

 

大勢の兵士や物資を朝鮮まで送り届けるためには、その方面の海路に詳しい人が必要ですし、実際に松浦のお陰で海運の作業はとてもスムーズでした。

 

秀吉も大喜びです。

 

で、江戸時代にはいっても時代の流れに飲み込まれる事もなく、松浦氏は平戸藩(長崎県平戸)6万石の藩主に収まります。

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そして、改易も転封もなく明治維新を迎えます。

良かったね!

(水軍でも山にすっ飛ばされる場合があるんです…)

 

 

伊東氏

「伊東に行くならハットッヤッ」の伊東です。

(古い?)

伊東氏のご先祖様は、伊豆国伊藤荘(静岡県)にいた伊東氏です。

 

で、その伊東氏が鎌倉時代日向国(宮崎県)の地頭を任されて、伊豆国からやって来ました。

日向国ですから、お隣には薩摩の島津氏がいます。

すると当然、争い合うんですね。

 

争い合いながらも、伊東氏は勢力を少しづつ広げて、日向国のほとんどを支配下に置きました。

島津を相手に立派ですね…。

 

そして、伊藤氏14代目当主、伊東義佑(よしすけ)の代で国内の結束を固くし、盛隆を極めます。

ところが、、この義佑は晩年になってから贅沢三昧の暮らしに溺れ、武将の志を忘れてしまいました。

 

そんな体たらくでは、島津の餌食になるに決まってます。

1572年、木崎原の戦いで島津に敗れたのを切っ掛けにその後の伊東氏は、ものすごい勢いで没落していきました。

 

ホントに、すごい転落。

ヒューンドカン!って感じで、真っ逆さまに落ちて行きました。

 

戦に敗れた義佑は、逃亡生活の果てにホームレスの状態で発見されます。

しかも、瀕死の重体。

そして、間もなくして死亡。

切ない…。

 

 

阿蘇氏

阿蘇氏はすんごい名族です。

古事記にも「阿蘇君」って言う名が出て来るくらいですから。

 

昔っから阿蘇。

熊本県の阿蘇。

阿蘇神社の阿蘇

ずーっと、阿蘇。

 

阿蘇氏は神社の神主さんを務めながら、阿蘇郡とその周辺を収める領主もやっていました。

しかし、南北朝時代(室町時代の初めの頃)からは一族が分裂気味。

(途中である程度統一はしましたが…)

 

戦国時代に入ると、島津の勢力に対抗するため大友氏相良氏などと同盟を組みます。

しかし1585年、島津がついに熊本へなだれ込ん出来ました。

 

阿蘇氏って戦はあんまり強くないんで、サクサクと城が陥落します。

そして、当主である阿蘇惟光(これみつ)は斬首。

戦国大名としての阿蘇氏は、これにて終了。

 

でも、惟光の弟である阿蘇惟善(これよし)は、阿蘇神社の宮司として生き残る事が出来ました。

 

そして、阿蘇氏は今でも続いています。

阿蘇神社の宮司さんをやっていますよ。

 

相良氏(さがらし)

相良氏は肥後国(熊本県)大名。

 

藤原南家の末裔であり、昔は(平安時代)遠江国(静岡県西部)にある相良荘って所に住んでいました。

だから、相良氏。

 

では、なぜ静岡県の相良氏が熊本県に居るかって言うと…左遷をされちゃったんです。

 

もともと静岡県にいた相良氏なんですが、ここお家は源頼朝が鎌倉幕府を作ろうって時にちゃんと協力してあげなかったんです。

だから、幕府の恨みをかって地方にポーンと飛ばされた。

そこは、肥後国の球磨郡多良木荘でした。

(熊本県と鹿児島県の狭間の地域)

 

その後、相良氏は多良木荘の隣の人吉荘も任されるようになります。

(鎌倉~室町時代にかけて)

 

戦国時代に入ると、もともとの領地である球磨郡葦北郡+八代郡にまで勢力を広げました。

さらに、九州の大名ですからね…日明貿易にも手を出してガッツリ儲けます。

この頃、相良氏は最盛期を迎えます。(22代、相良晴広

 

ところが、1581年に島津氏からの攻撃を受け降参して、島津の軍門に下ります。

ところがところが、次は豊臣秀吉が九州に上陸。

相良氏は島津から豊臣へと乗り換えます。

 

豊臣の次は、徳川なんですが…この時はちょっとヒヤッとしましたよ。

関ヶ原の戦いで、当初西軍で参加してしまったんです。

そこで、戦の途中で東軍に編入し、ギリギリ改易を免れました。(*’▽’)

 

相良氏はそのまま江戸時代に突入し、人吉藩を開くに至ります。

現在の熊本県人吉市の人吉藩。

 

人吉藩は、江戸時代の最後まで持ちこたえ明治維新を迎えますが、田んぼが害虫に喰われまくったり、球磨川がメチャクチャに氾濫したりでずーっと貧乏でピーピーしてました。

でも、同じ所領を700年以上も支配し続けたのは立派!

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