キリスト教にかぶれて、大友家を潰してしまったように言われる大友宗麟。

果たしてその通りなんでしょうか?

九州の巨大大名

大友氏は、もともと大きな勢力を持った大名でしたが、宗麟に代になってからはさらに支配地域を広げました。

 

筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後の六カ国を有する巨大大名に成長します。

(九州の上の方全部です)

さらに、南蛮貿易でガッツリもうけてお金もたんまり持っています。

 

もう、絶好調ですよ。

イケイケの大友氏。

 

当時の勢力地図を見るれば、面積を見ると大友は日本一です。

 

今川とが北条が小さくみえる。

それほど大きかった。

 

 

キリシタン宗麟

宗麟はキリシタンの大名としても有名ですよね。

大友はなりがデカいから、どうしても目立ってしまう。

 

それは、いいんですけど…一説には、宗麟がキリシタンになったから大友氏滅亡したという話があります。

でも、それホントかなぁ?

 

家臣の多くが神道や仏教を信じているのに、国のトップが異教徒なので心が離れてしまったとか、お寺や神社を容赦なくぶち壊したとか、神様にかまけて戦を放っぽらかしたとか、噂がありますが、どこまでホントかよく分からないんです。

 

その一方で、無理やり布教を勧める宣教師に注意をしたり隠居してからキリスト教に入信しいるとか、奥さんが怖くて思いっきりキリシタン活動が出来なかったとかも聞いていますし。

 

もちろん、キリスト教には関心はあるし、西洋文化への憧れも持っていた事でしょう。

でも、暴走して人に大きな迷惑をかるような事って無いと思います。

ちゃんと節度は保っていたようです。

 

大友宗麟には義統(よしむね)という息子がいますが…宗麟の悪いウワサは、義統の醜業とごっちゃになってる所があります。

 

 

転落する大友氏

大友氏は島津氏を相手に耳川の戦い(1578年)で大敗すると、急激に勢力が衰えていきました。

 

どうしてでしょう?

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耳川の戦いの時、宗麟は戦場に出ないでキリシタンのお祈りばかりしていた。

だから、兵士たちはやる気を失って統率も乱れ、島津の戦力に圧倒された…みたいなイメージを持っている人も多いかもしれません。

 

実際にその通りかも知れませんが、これでは宗麟ばかりが悪役になってしまう…。

 

しかも耳川の後、大友に愛想を尽かした家臣達は次々と離反し、かつての威信はどこへやら?

ああ、それもこれも宗麟様がキリスト教に狂信したせいだ??

 

ただ、この当時はすでに宗麟は家督を義統に譲っているし、軍議が固まる前に会戦に突入してます。

だから、衰亡の原因をすべて宗麟に押し付けてしまうのは少々かわいそう。

 

こんな状態では、強豪島津に勝てる気がしません。

 

また家臣の離反については、宗麟から離れて行ったのではなく、息子の義統がイヤだからサヨナラしていった家臣も多かったと聞きます。

(細かい事言うと、宗麟の任命責任にも問題があるかも知れませんが…)

 

そして、その後の転落。

 

島津にぐいぐい押されて、豊後に封じ込められた大友。

もはや立つ瀬が無く、秀吉に助けを求めます。

 

おかげで大友の滅亡は免れたが、かつての巨大大名の面影はありません。

 

秀吉は、大友家に豊後だけでなく日向国も与えるつもりでいたのですが…宗麟は、その気を示しません。

これは、戦国武将としてのやる気を失ったと取る事も出来ますがむしろ、体調が悪かったのが原因ではないかと思います。

 

今となっては、何が決定打になったか分かりません。

ただ、宗麟の事を名君とするか、暗君とするかで見えてくる物が違って来ますね。

 

 

ザビエルと宗麟

 

宗麟のキリシタンとしての霊名は「ドン フランシスコ」と言います。

これは、かの有名な「フランシスコ ザビエル」にあやかって付けた名前だそうです。

 

宗麟は20歳の頃にザビエルと出会い、初めてキリスト教というものを知ります。

きっと相当なカルチャーショックを受けた事でしょう。

ザビエルには好意的に接しています。

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