徳川家康の目の上のたんこぶ、前田利家

加賀100万石で、秀吉のマブダチ。

 

?前田慶次実在最強伝説逸話33
利家

 

何となく、この人にだけは勝てる気がしない。

利家の方が、人望はあるし、言ってることは正しいし…

 

利家があと10年長生きしていたら…歴史の流れは全然違っていた事でしょうね。

利家が生きてると、家康は勝手な事ができないんです。

 

今回は、前田利家のわかりやすい紹介と歴史をお送りします。

若き日の信長に仕える

前田利家は、尾張(愛知県)武将の4男坊として生まれました。

 

と言う事は…この時点でほぼ家督を継げない!と言う運命にあります。

4番目ですから、そこまで順番が回って来ないんです。

 

利家って元々そういう人なんです。

放っておけば、ず~っと人の下で働いていたかも知れない。

 

でも当時の尾張では、信長が自分のチームの人材を募集していたんですね。

あの悪名高き「うつけもの軍団」のメンバーを…

(これが、利家の人生を変える切っ掛けとなりました)

 

11織田信長

 

すると、利家もうつけもの軍団に加入する運びとなります。(13才の時)

 

「うつけもの」って言っても信長系の組織グループなので、これが後の織田家臣団に成長していきますが…

 

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槍の又左

前田利家は13歳で初陣し、以降着実に武功を重ねていきます。

 

身体はでかく(身長180cm)、勇猛果敢な性格、派手な槍を使用していたので、戦場では目立つ存在でした。

そこで、ついたあだ名が「槍の又左(又左衛門)」。

 

勇猛過ぎて、顔に矢がブッ刺さった状態で戦い続けた…という伝説があるくらいです。

勇猛って言うか、無茶苦茶かも。

(刺さった矢を、コツンって押されたらグサッですよね…)

 

そして、そんな利家に人生の転機が現れます。

それは、、、信長の側近を斬り殺しちゃったんです!

 

側近の一人に態度のデカいヤツがいまして、しかもそいつが利家の大事な刀までかっぱらって行こうする…

で、利家は頭に来たからそいつを斬っちゃった。

 

そんなヤツ斬られて当然なんですが、信長様の側近だったので利家のほうが咎めを受けます。

それは、無期限の出入り禁止

 

厳しい処分です。

事実上のクビですから。

収入は途絶え、仲間たちも去って行く。

 

この時、利家は貧乏の辛さと自分の人徳の無さを思いっきり噛み締めます。

(でも、これがいい教訓になりました。これからはお金と仲間は大事にしよう…って。当時の利家は本当に貧乏だったようです)

 

戦線からリストラされた利家は、再起を願ってボランティアで戦に参加します。

その後「桶狭間の戦い」「森部の戦い」で武功を打ち建てようやく、織田軍にカムバックすることを許されます。(フー、助かったぜ)

 

 

四男坊が前田家を継いだ

織田軍の中で徐々に出世して行った利家は、信長の命で前田家の跡取りとなります。

4男坊なんですが…

 

前田家には、一応後継ぎをやっていた兄ちゃん(利久)がいたんですが、イマイチ病弱で頼りにならず。

それなら、利家のほうが良いだろうってことでね。

 

ちなみに、兄ちゃんの婿養子に「慶次」ってヤツがいました。

そうです、彼があの有名な花の慶次。

 

前田慶次実在伝説最強?99

 

前田慶次【実在】伝説の慶次は本当にいたのか?

 

前田家の主となった利家は、織田軍の武将として各地を転戦します。

長篠の戦い、姉川の戦い、石山本願寺、、、等々。

利家はガンガン武功を立てます!

 

そして、柴田勝家の下に出向して越前(福井県)の一部地域を授かります。(与力ですね)

さらに、上杉謙信が死ぬと越後に進出し、、、23万石の大名に!大出世を果たしました。

 

能登一国の大名ですよ、やりました!!

(利家もここまでイケるとは思っていなかったでしょう)

 

 

本能寺の変 → 賤ケ岳の戦い 秀吉か?勝家か?

しかし、1582年。

 

思いがけない大事件が起こります。

本能寺の変です。

 

このクーデターのおかげで、信長は討ち死。

信長亡き後、織田家臣団の中ではリーダー争いが勃発します。

 

表面上は織田信孝(3男)と三法師(信長の孫)との家督争いなんですが実際は柴田勝家羽柴秀吉との争い。

で、利家としてはどちらに付くか、難しい決断が迫られます。

 

豊臣秀吉11

 

利家のボスは勝家。

でも、秀吉とはマブダチ

 

忠節を貫くか?友情をとるか?

 

すっごい悩みましたよ…。

そして、利家は秀吉に付く事にしたんですね。

 

賤ケ岳の戦い(1583年)では、勝家と一緒に戦ったんですが、途中で戦線を離脱する事で秀吉に勝利をもたらしました。

ただ、利家の心中は複雑だったと思います。

 

その後、戦に敗れた勝家は利家の城(府中城)を訪ね、メシを食いながら

「今回の戦は大変だったね~」みたいな話をします。

利家が裏切った事など、いっさい咎める事無く。

 

そして、何事もなかったかのように北ノ庄城に帰って行きました…

要するに、勝家は別れの挨拶に来たんですね。

 

友情に生きるのも男の人生

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しかし…そのためには、日頃から尊敬する大将を裏切らなければいけないこの切なさ。

「柴田のおやっさんには、散々世話になったのになぁ」

 

利家の胸は、今にも張り裂けそうでした。

 

 

晴れて秀吉組へ

賤ケ岳の戦いが終わると、利家は晴れて秀吉組に参入します。

 

すると、今度は徳川家康との対決。

秀吉の独走を許さじと、家康が対抗してきたんです。

 

12徳川家康

 

そして、小牧長久手の戦い(1584年)が勃発。

秀吉VS家康。

 

小牧長久手の戦いは尾張周辺で行われましたが、利家いる北陸でもこれにシンクロして戦が起こっています。

家康組の佐々成正が、利家の末森城に襲い掛かって来ました。

 

この戦いは、キビシかったなぁ。

 

佐々軍1万5千に対して、利家軍2千5百

しかも、かつての戦友。(勝家の下で働いていた同僚)

やりづらい~。

 

でも、なんとか潰れずに持ちこたえ、、

そのうちに秀吉の援軍が到着し、、

無事に佐々軍を退治する事が出来ました。

 

この難事をなしとげた利家は、さらなる領地の加増を得て90万石にまでに到達。

加賀、越中を与えられた利家はここに、加賀100万石の礎を築きます。

 

この頃になると、利家も秀吉も世間から見たら雲の上のような存在になってしまいましたが、二人の間は昔と変わらぬ、学校の友達みたいな関係でした。

 

「豊臣秀吉の性格」を知る逸話⑦

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最期の利家

家康とタイマン勝負

晩年の利家家康と同じぐらいのステータスを得ます。

つまり、秀吉に次ぐナンバー2の位置にいるわけです。

 

家康としたら、利家の存在が邪魔でしょうがない。

コイツがいなけりゃ、次の天下はオレのもの。

 

でも、勝てる気がしない。

利家の方が人間的に上のような気がするし…

秀吉となら戦をやっても勝てそうな気がするんですが、利家とやるのはイヤなんです。

 

こういう話があります。

 

秀吉の死後、家康は伊達家や福島家と政略結婚を進めます。

でもそれは、秀吉の生前の約束でやっちゃダメだって事になっていました。

(「死んだ人の約束なんか意味ねーよ」っていう家康の考えも分かりますけど…)

 

勝手な振る舞いをする家康に対して、利家は直談判に及びます。

戦じゃなくで直談判。

「おい、家康…ちょっとツラ貸せ」

 

狼利家

 

利家を支持する人は沢山いたので、戦を起こしても良かったのですがそういう事はやらない。

利家はルール違反を盾に取って、戦を売るような事はしませんでした。

 

まずは、家康と直で話し合う。

それでダメなら、刀で決闘。

 

ここで利家が殺されたら、最後は戦。

(もの凄いスジが通ってますね、非常に納得できます)

 

で、家康は利家に屈して間違いを改める事にします。

家康は利家の実直な人間力に負けたのでした。

 

戦や剣術は家康の方が強いでしょう。

しかし、それだけで勝っても人は付いて来ません。

その違いがあるからこそ、家康は利家に敵わないのでした。

 

【徳川家康とは?】家康が分かる「5つ」のポイント!

 

閻魔様?なんじゃそれ?

晩年になりジジイになった利家は、体調を崩して半病人状態。

 

そこで、まつ(利家の奥さん)は床臥しがちな利家のために、お経の書いてある戦闘服を用意してあげました。

 

そして…「あんたは、人をいっぱい殺したからきっと地獄に落ちるわよ

だからあの世に行く時は、せめてこの服を着て地獄に行ってちょうだい…」

と、まつは言います。

 

すると利家は「バカな事言うなよ。俺は戦はしたけど、人殺罪はやって無いからね。

もし、それで地獄に落ちるようだったら、逆に閻魔大王をぶっ飛ばしてやるさ…」

 

閻魔大王

 

ある日、病気の心配をした家康が見舞いに来ると、利家はそれを警戒して刀を隠し持っていたと言います。

 

元気バリバリの家康が、死にぞこないの病人相手に闘って負けるワケないんです。

やり合ったら、500%利家が負けます。

 

それなのに、わざわざ刀なんか隠し持って…

でも、そこが利家の良い所なんですね。

 

 

まとめ

前田利家は前田家の4男坊として誕生し、子供の頃から信長のうつけ者軍団に加入しました。

そして13歳で初陣して以降、勇猛な戦いぶりで「槍の又左」の異名を取ります。

利家は武功をガンガン立て、ついには加賀100万石の礎を築くに至り、押しも押されぬ巨大大名へと成長。

秀吉亡き後は、家康が天下取りのチャンスを狙っていましたが、利家がいる限り勝手な行動は出来ませんでした。

(これは、家康よりも利家の方が人望が厚かったことを意味しています)

 

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