【安国寺恵瓊】関ヶ原で死を恐れ、首をすくめた坊主の生涯と逸話とは

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)とは武将風味のお坊さんです。

恵瓊は戦に参戦したり、他の大名との交渉をやったり、6万石もの所領を持っていたのでまるで戦国大名の様ですがやっぱり、ちょっと違う。

頭は良いんですが、武将みたいに根性が据わっていない。

関ヶ原の戦いに敗れた恵瓊は、運命を同じくする石田三成と違ってブルブル震えながら最期の時を迎えました。

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僧侶から大名へ

安芸武田氏から安国寺へ

安国寺恵瓊の家系は、安芸国(広島県)武田氏系の武将一族。

(ご先祖を辿ると甲斐武田と繋がります)

 

でも、安芸武田氏は恵瓊が小さい頃に毛利元就に攻められて滅亡。

(この時、恵瓊のお父さんは自刃)

 

そこで子供の恵瓊は、安芸武田氏の家臣につれられ逃亡して寺に入りました。

そこは安芸国の「安国寺」というお寺…。

 

その後恵瓊は京都で修行をし、そこで世話になったお師匠さん(笠雲恵心)が毛利隆元(元就の長男)と仲よし。

これが縁となり、恵瓊は毛利に仕え安芸国に戻って来ます。

(以前は毛利と敵だったけど…)

 

毛利に仕えるといっても、恵瓊の特技はお坊さん。

そこで、槍持って戦うよりは交渉事に勢を出していました。

頭が良くて、お話も上手な恵瓊にはピッタリの任務です。

 

織田信長と安芸国に逃げ込んで来た足利義昭の仲介役をやったり…

大友宗麟と毛利の和議調停を成立させたり…

大友、浦上、足利義昭の講和を取りまとめたり…

非常によく頑張ってくれたました。

 

備中高松城で

そんな日々を過ごしていたのですが、、1582年の事。

ついに、毛利にも織田軍の侵攻が及びます。

 

軍隊を率いる羽柴秀吉は備中高松城に襲い掛かり、城の周りを湖状態にしました。

前代未聞の度肝を抜く作戦。

これでは、毛利もお手上げです。

 

そして、秀吉は「早く降参しろよー」と訴えます。

そこで毛利からは恵瓊が交渉にやって来て、秀吉に譲歩をさせる形で和議を結びます。

(秀吉としては、本能寺の変の収集に早く向かいたかったので「話がまとまりゃ何でもOK」だったかも知れませんね。しかも恵瓊と秀吉派は昔から面識があったので話が早い)

 

伊予国で大名デビュー

その3年後…秀吉は改めて毛利に臣従するように迫ります。

すると、ここでも恵瓊が登場して交渉に当たり、双方の話をまとめます。

で、良いのか悪いのかよくワカンナイんですけど…毛利は正式の秀吉の傘下に入る事になりました。(恵瓊は秀吉のファンなんです)

 

そこで「いや~よかった!やっぱ恵瓊のヤツ話が分かるなぁ~。うん、気に入った!」

と機嫌を良くした秀吉。

 

そして、四国を平定すると恵瓊伊予国(愛媛県)に23000石の所領を与えます。

おお、何とこれは!立派な大名デビューです。

しかも、九州平定後には6万石にまでボリュームアップしてるじゃないですか…。

 

お坊さんから武将に転職して来る人って(謙信とか)ボチボチいるんですが、その場合実家がちゃんと武家として存続しているワケです。

でも、恵瓊のところは滅亡してますから、珍しいケースですね。

 

恵瓊はお坊さんですが一応戦国大名なので、それなりに戦もやっています。

朝鮮出兵にも行ってますしね。

 

 

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関ヶ原での戦いで…

その後、秀吉が死ぬと豊臣の中では石田三成徳川家康が対立を深めます。

恵瓊としては三成の派閥に入ります。

(三成とは個人的に仲がよかったので)

 

そして、いよいよ関ヶ原の戦いへと発展していくのですが、、、

三成では大将を張れる器じゃないので、毛利輝元を西軍大将に引っ張りだしてきました。

(本戦ではロクに戦っいませんが…)

 

その結果…西軍は負けましたよね?

 

若いころの恵瓊は、信長の没落と秀吉の盛隆を読み通せる眼力がありました。

しかし、関ヶ原に戦いにおいてはその先見性を失っています。

(ちなみに、西軍の敗因の一つに恵瓊と対立していた吉川広家の東軍への内応があります)

 

たぶん、恵瓊は出世したことで人を見る目が曇ってしまったんでしょう。

自意識が過剰になり、物事が公平に見れなくなった…。

 

「三成が天下を獲れば、俺もそれに応じてもっと出世できるぞ…」

そんな風に考えたに違いありません。

 

でも、それは三成でさえも、その手の欲望はありませんでした。

自らの理念を信じ、武士として最期まで戦った三成。

恵瓊とは同じ方向を見つめていましたが、三成の視線の彼方はもっと遠くを目指していた事でしょう。

 

戦に敗れ、最期の瞬間を迎えるまでの間、三成は胸を張り堂々とした振る舞いで過ごしています。

しかし、恵瓊は刀の恐怖に怯えて首をすくめていました。

 

ただ、それって確かに仕方ない事かな?。

普通なら怖くて仕方がないはずですから。

 

恵瓊は根っからの武将じゃないんですね。

武将と普通の人では生き様が違うんです…。

 

 

まとめ

安芸武田家の家に生まれた安国寺恵瓊は、毛利家の侵略から逃れるために僧侶になります。

しかし、京都での恩師の縁で毛利に仕える様になり安芸に帰りました。

その後は、毛利家の政僧&武将という形で活躍。

秀吉による毛利討伐でも恵瓊は交渉役として登場します。

これが切っ掛けとなり、恵瓊は秀吉に認められるつつ、利用されながら大名の地位に昇り詰めます。

そして、関ヶ原の合戦では西軍に所属し、、、敗戦の恐怖に心底怯えます。

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