織田家臣の叩き上げ武将、佐々成政。

成政は尾張武家の三男坊でしたが…

信長に仕えるとたちまち頭角を現し、出世街道をばく進します。

しかし、本能寺の変で信長が死ぬと、成政の人生に異変が…。

信長亡き後、織田軍団の先頭に立ったのは、あの胸くそ悪い「羽柴秀吉」。

それだけは、絶対に許せない!!

あのヤローだけは、生理的に受け付けないんだ!?

しかし、秀吉は時代の追い風を受けて、天下統一へとひた走り…

その一方で、成政は坂道を転げ落ちる様に、悲運を辿ります。

秀吉憎し!どうして?

佐々成政は昔から秀吉の事が大嫌い。

でも、なんで嫌いなのか良く分らないんですね。

 

後輩の秀吉が、自分より先に出世するのが許せなかったのか?

成政から見ると、秀吉は軟派なお調子者に見えたのか?

それとも、ただ単に性格の反りが合わなかったのか?

 

調べても確証が出てこないんですが、成政の秀吉嫌いは定説の様です。

 

智謀派の武将は秀吉とウマが合い、武勇系の武将には嫌われっぽいのですが…

これも一概には言えなくて、逆に秀吉は武勇系の人が好きだったりもします。

さらさら越えの執念

こういう話があります。

 

小牧長久手の戦い(1584年)で秀吉と家康が戦いました。

「秀吉の独走、許さん」って、事で。

 

その時、成政はもちろん家康方に付きました。

(秀吉がきらいなんで…)

 

この戦では、家康の方が優勢に攻略していましたが、途中で急に終結してしまいます。

家康方の大将、織田信雄(のぶかつ)が勝手に、秀吉を和睦を結んでしまったのです。

 

家康としては、信雄をプッシュする立場なので、大将が「もう戦わない」

と言えば、それでオシマイ。

中途半端な結果ですが、戦う意義がないのでこれにて終了。

 

しかし、これに納得できないのが、佐々成政でした。

 

今こそ、秀吉をぶっ潰してやろうと思ったのに!

まだまだ戦えるのに!

何で、急に辞めちゃうのさ?

 

成政は、徹底抗戦を家康に持ち掛けようと、浜松城に向かいます。

しかし、成政のいる越中(富山県)から浜松までの道は、秀吉によって封鎖されている。

 

ならば、と言う事で強引に北アルプスの山越え強行します。

かなり強引な通行ルートですね。

 

厳寒の北アルプス

出発は旧暦の11月23日ですから、今の正月ぐらいの時期。

真冬の豪雪が降り積もります。

道なんか見えないくらいの、真っ白な山岳ルートを強行突破。

 

これが有名な「さらさら越え」。(ザラ峠の厳しい山道…)

 

遭難して命を落としても、なんら不思議はありません。

探検家レベルの強行ですから。

(凍死寸前かも?60人で出発して、生き残ったのはたったの7人)

 

成政は「何としても秀吉と戦い、ヤツからの支配を逃れたいんだ!

そんな思いで、浜松城までの道のりを進みます。

(家臣は、ブーブー文句を言っていましたが…)

 

そうやって苦労しながら、浜松城に辿り着きました。

 

そして、家康と合って戦を続ける様に訴えます。

「やっぱ、秀吉は討った方がいいよ!!」

 

しかし、成政の願いは聞き届けられません。

 

そりゃ、そうですよ。

戦う理由が、無いんですから。

 

大将の信雄が「もうやらない」って言っているんだから、これ以上戦うのは反乱行為と一緒。

個人の好き嫌いで、戦はやっちゃいけないんです。

 

成政は、ガックリと肩を落として越中に帰って行きました

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富山の役

秀吉と家康は、小牧長久手の戦いで決着していますが、成政は反意を剥き出し。

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そこで秀吉は、その翌年(1585年)6万の兵を率いて、越中に乗り込んで来ます。

 

これが、富山の役です。

 

富山城は堅牢な城なので、簡単には落とせないハズ。

しかし、秀吉の挙兵に合わせて、上杉まで攻め込んで来るとは!

(最悪のシナリオです)

 

これでは、敵うワケないです。

悔しいけど、お手上げ。

 

そこで成政は、織田信雄仲介を頼んで、秀吉に詫びを入れます。

そして、頭をまるめて従意を示しました。

(従意って言うか…本心は死ぬほど、悔しかったでしょうけど)

 

これを受けた秀吉は、成政を許してやる事にしました。

ただ、許すって言っても「命は取らない」という意味。

 

領地は没収するけど、斬首とか切腹は無し。

奥さんも子供も無事です。

 

しょせん個人的な恨みで反乱しているだけなので、殺すほどの咎めは受けませんでした。

っていうか、秀吉は密かに…成政を尊敬していたんですね。

 

成政に嫌われているのは知っていましたが、勇猛だし、人望はあるし…武将として十分尊敬

値すると思っていたのです。

(秀吉って敵将であっても、人を目の敵にしない性格なんです。成政に限らず…)

 

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いざ、肥後国へ。しかし、泥沼の国人一揆。

越中を没収された成政は、大阪に行って秀吉の御伽衆(話し相手係)をやらされます。

たぶん、すごく辛かったんじゃないでしょうか?

毎日(?)嫌いなヤツを相手にして、全身に虫ずが走っているワケですから。

 

そんな、屈辱の日々を2年間過ごします。

 

しかし、九州征伐で武功を立てたのが切っ掛けとなり、成政は肥後国(熊本県)をもらいます。

(ふぅ、これで大坂からオサラバ出来るぜ…)

 

ところが肥後では、くそ生意気な国人衆どもが、とぐろを巻いて待ち構えているんです。

いつ一揆行動が、勃発するか分からない。

 

秀吉は、そんな危険地帯に成政を投入。

肥後は力のある武将じゃないと抑えきれないだろう、ならば成政の出番だ、鎮圧名人だから…」

 

そして、肥後に登場した成政。

 

成政は、強豪な国人たちをガツンと抑えつけました。

ところが…予想以上に国人衆の反発が強くて!逆に大パニックを巻き起こしてしまいます。

 

肥後を治めるためにやって来たのに、かえって国人一揆を引き起こしてしまった!

もはや、成政だけの力だけでは収集がつかなくなり、九州の諸大名の援軍を呼ぶ羽目に…。

 

これは成政だけの失態にとどまらず、豊臣の沽券にも関わる問題です。

 

そんなヤツが、のうのうとで生きていたら豊臣の恥です。

世の中に示しがつきません。

(秀吉の任命責任もありますが…)

 

で、成政はこの落とし前をつけるために、尼崎で切腹をするに至りました。

 

越中での一件は、個人的な問題なので笑って?許せますが…

肥後の国人一揆は社会的な責任を取らにゃならんので、きっちりとした処分が下ります。

 

でもなぁ~、成政の立場からしたらいきなり肥後に飛ばされるってのも、チョット酷だったかも…。

あんな地獄の一丁目みたいな所に行かされて、丸く収めて来いなんて…キビシイと思います。

(わざと肥後に行かせた、という説もありますね)

 

現代の佐々氏

佐々成政と言えば、そのご子孫に佐々淳行氏がいます。

初代の内閣安全保障室長をやった人。

あさま山荘事件の鎮圧などで、指揮を執っています。

こちらの鎮圧は成功しましたね。

 

 

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