1573年、室町最後の将軍足利義昭が、織田信長によって京都を追放されます。

そして、その後の人生は…「イマイチ良く分らん」という人も多いのではないでしょうか?

学校の教科書には載っていないし、ドラマ化もしていないし。

でも、天下の将軍ですからね~どこへ行って行ってしまったのか、少し気になる…。

今回は、そんな足利義昭の上洛~放浪のストーリーを追ってみます。

どんな結末になるのか、お楽しみに!

足利義昭VS織田信長

上洛しよう、一緒に

足利義昭は将軍になる頃には、室町幕府は崩壊寸前のヘロヘロ状態。

義昭は15代将軍になるため京都に上りたいんだけど、敵(六角氏、三好氏)が邪魔して入れません。

 

誰か…私を京都に連れてって。

 

そこへ登場したのが織田信長です。

信長も、ちょうど京都に行きたかったんです。

(義昭→信長の紹介者は明智光秀

 

でも、京都まで攻め入る口実が見つからず…

そうしたら、足利義昭が一緒に京に行きたいと言うではないか!

 

よっしゃ、今日まで連れてってやる。

そして、行く手を阻むものは叩いていいんだよね?

どけどけ~、次期将軍様のお通りだ~っ。

 

こうして、織田信長は足利義昭を伴って上洛の兵を挙げ、無事京都に到着。

六角氏と三好氏を蹴散らしながら…。

 

ところが、義昭と信長は二人三脚で上洛したものの、その後だんだん仲が悪くなります…。

 

京都から追放

義昭としては「俺は将軍だから信長より偉いんだ」という思いがあり、

信長としては「将軍はお神輿なんだから大人しくしてて下さい」と言いたい所。

そして、二人は互いに反目し合います。

 

義昭は「上洛しちゃえばこっちのモノ」とばかりに、周辺大名に打倒信長を呼びかけます。

すると、信長包囲網が出来上がり、みんな信長の首を狙ってくる。

この時の信長の苦しさといったら、なかった…。

もう、窒息寸前まで追い詰められましたよ。

 

しかし、朝倉義景の戦線離脱と武田信玄の死により、包囲網が緩んでしまいます。

九死に一生を得る信長。

 

そして、後ろを振り向くと義昭がブルブル震えています。

かつては一緒に上洛した中ですが、今ではすっかり敵隊関係

尾張の番長がこちらを睨んでいる…。

 

その後義昭は、京都周辺に拠点を築き信長と戦いますが…敵うワケないです。

あっという間に敗れて降参。

そして、京都から追い出されました。

で、どこ行ったか?

 

追放された義昭

腐っても将軍

京都を追われた義昭は当初、大阪や和歌山の辺りの知り合いを頼って逃げ隠れ。

しかし、それでは信長に近すぎるのでもっと、ず~っと遠くに逃げます。

 

そこは、毛利氏の支配下である備後国「鞆の浦」(もとのうら)。

広島県ですね…。(鞆の浦・広島県の海辺の町です)

随分、遠くまで行きました。

 

(備後国は足利将軍のパワースポットみたいな所なので縁起がいい場所なんです)

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ところで、義昭って京都から追い出されはしましたが、一応まだ将軍なんです。

将軍だから、一応所領からの年貢は上がってくるし、何かの役職の任命の仕事とか、ファンから寄付金とかで、自分が食っていくぐらいは出来ました。

 

そして、信長周辺以外の大名では「将軍ブランド」はまだ健在。

(昔ほどじゃないですけど…)

なので、地方に行くと意外とみんなでチヤホヤしてくれるんです。

 

また、義昭自身も京都に返り咲くことを諦めていませんでした。

 

信長包囲網の黒幕

そして、義昭はいろんな大名に手紙を出したりして「打倒信長プロジェクト」を計画します。

かなり本格的にやりましたよ。

あそこと、あそこを同盟組まして信長と対抗させよう…なんて。

 

毛利輝元をその気にさせて、上杉謙信を仲間に引き入れ、石山本願寺と結託する。

すごい勢力で信長を包囲し、信長に再びピンチが襲って来ました。

 

特に、織田と上杉が戦った時はヤバかった。

織田軍はズタボロにやられて、おまけに手取川の急流に流される始末。

 

ところが…その翌年、上杉謙信の急死!により2回目の包囲網もゆるんでしまいます。

 

また、毛利にも上洛計画はあったんです…。

でも、作戦開始直前に織田軍が先に攻め込んで来たので、計画はオジャンになりましたね。

足利義昭は、ここでもまた挫折を味わいます。

 

 

秀吉が京都に帰してくれた

そうこうするうちに織田はどんどん領地を広げ、本能寺の変が巡り、秀吉の時代に突入します。

 

ここまで来ると、もう全国統一が間近。

絶対にひっくり返せません。

ひっくり返っても、室町時代には逆戻りはしません

 

今まで散々お世話になった毛利までも秀吉の傘下に入り、これでは反逆のしようがないんです。

 

この頃の義昭は、九州の島津と豊臣の和平交渉などに赴いています。

完全に立場が逆転して、秀吉の野望に貢献しちゃってる。

 

そして、秀吉天下統一を果たすと、これを切っ掛けに足利義昭京都に帰る事が出来ました。

秀吉が京都に呼んでくれたんですね。

 

呼んでくれたって言うか、完全にお客さん扱い。

この期に及んで、将軍が京都にいたからって特に何の影響も無いだろうから…。

牙と爪を抜かれた年老いたライオン。

 

義昭が京都に戻ったのは、1587年の事でした。

だけど、立場はまだ一応将軍なんです!

(頑張ってますね)

 

ただ、これは秀吉による計らいで、翌年(1588年)には将軍を辞めています。

将軍として京都に帰った方が、世間体も良いだろうって。

 

京都に帰った義昭は、山城愼島に1万石(ちっちゃい…)の所領をもらい秀吉の話相手(御伽衆)を務めます。

そして、その翌年死にました。

享年61歳

 

ちなみに、義昭の晩年は将棋の駒作りを趣味としていたそうです。

室町幕府…兵どもが 夢の跡

 

 

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