蓮如は、室町時代の超貧乏なお坊さん。

京都に生まれた、めっちゃショボイお寺の跡継ぎです。

紙の服を着て、食事は一日一回だけ。

 

11寺ボロイ

 

しかし、蓮如の胸は仏教への熱い思いで、燃えたぎっていました。

後に、蓮如は他教団の攻撃を受けて加賀に拠点を移しますが…

これが運命の転機になります。

 

加賀での布教は爆発的に信者を増やし、巨大な組織として結集し「百姓の持ちたる国」

を打ち建てました。

一揆衆が、自治権を勝ち取る話は他にもありますが、ここまでのスケールは前代未聞。

 

今回は、蓮如が中心となって巻き起こした、奇跡のストーリーをお送りします。

 

本願寺の蓮如

蓮如は、浄土真宗・本願寺の第8代目の後継ぎとして誕生しました

本願寺とは鎌倉時代、あのカリスマ開祖「親鸞聖人」によって開かれたお寺。

 

11親鸞聖人
親鸞

 

しかし、室町時代に入って流行が去ると…本願寺なんか誰も見向きもしない。

廃れまくって、ポンコツのしょっぼーいお寺と化してしまいます。

 

幕府はもちろん、武士や町民からも見捨てられて、どん底まで落ちぶれます。

たま~に誰かお参りに来たかと思うと…あまりにボロすぎて他所のお寺に行ってしまう始末。

 

蓮如は、そんなお寺の後継ぎ。

だから生活は超貧乏

 

食事は一日一回。

ヘタをすると、3日ぐらいご飯を食べられない有り様。

 

紙の服を着て、子供は里子に出し、経典を読むのにも火を灯す油さえ買えません。

そんな貧乏のどん底にあえいでいる蓮如。

 

しかし、布教への情熱だけはグワングワン燃えていました。

 

 

延暦寺との対立、そして加賀へ

蓮如は、43歳で本願寺の法主(ほっす、お寺の社長さんって事)に就任すると、エンジン全開で布教活動を繰り広げます。

もの凄い貧乏でしたが…

 

特に蓮如は、信者さんに「名号」(南無阿弥陀仏の文字、功徳のあるとされる言葉)を頼まれると、喜んで書いてあげました。

 

22蓮如

 

もう、誰にでも書いちゃう。

絶対に断らない。

 

ガンガン書きまくりです。

「南無阿弥陀仏は功徳あるからね~、パワーでるよ~」なんつって。

 

ある日、蓮如がお付きの者に「私は日本で一番!名号を書いてる坊主だと思うんだよね~」

と言いました。

すると、お付きの人は「いや~、先生はその3倍は書いてるんじゃないですか?」

と返してくる。

(この人もなかなか良いリアクションですね)

 

そのくらい精力的に活動し、かつフレンドリーな蓮如。

(ちなみに蓮如は一休さんに負けない頓智坊主)

 

すると、本願寺はジワジワと活気を取り戻して行くことが出来ました。

(ユーモアのある人なので、フツーのおっさんとしても人気がありました)

 

ところが、これを面白く思わないのが比叡山の延暦寺

延暦寺の勢力が、本願寺に食われていく…

(お客さんを取られちゃうから)

 

そして、この現実を目の当たりにした比叡山のグループは、恐ろしい事をやってのけます。

京都の大谷本願寺や近江金森といった、本願寺の拠点を攻撃(破壊活動)して来たのです。

(比叡山の人たちは怖い…)

 

11比叡山僧兵

 

こうして、京都に居られなくなった蓮如は、新天地をもとめ加賀に向かいました。

 

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吉崎御坊

蓮如は、新たな拠点を越前吉崎(福井県あらわ市)に定めます。

 

越前吉崎はかつての恩師(経覚和尚)が所領していた土地。

それを、新天地を求めた蓮如に譲ってくれたのでした。

 

そして、吉崎に新たな活動基地を建て、これを吉崎御坊(よしざきごぼう)とします。

(現在は公園になっていて、蓮如像が立っていますね)

 

吉崎の地で布教活動を再開した蓮如は、一向宗の教えを

  • 分かり易くかみ砕いて説明した「御文(おふみ→昔のメルガマ)」を布教に用いたり…
  • (こう)」と言う信者さんたちのグループを作ったり…
  • またセミナーなどを開催する時は、高い所からエラソーにしゃべるのでは無く、みんなと同じ高さになって、ざっくばらんな座談会みたいにやりました。

 

蓮如講11

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すると、これらの活動が大ヒットしてもの凄い勢いで広まって行き、越前から広まった蓮如のムーブメントは、加賀にも押し寄せます。

 

一向宗は心のオアシス。

お百姓さんたちの心をわし掴みにします。

 

そして、同じ志を持った者同士は、すぐに打ち解けました。

「おー、アンタも一向宗なんだね?」

「うん、そうそう。一向宗っていいよね~」

 

最初は、個人的な蓮如ファンだったの人たちは、ご近所の一向宗の人と交友を持ち、それが村単位のネットワークに進化し、さらには郡のレベルに広がり巨大な勢力組織へと成長します。

そしてこの後、一向宗の勢力は一国の運命を変えていく事になるのでした。

 

 

加賀一向一揆

当時加賀国は、富樫氏と言う守護大名が治めていました。

しかし、富樫氏の中で内紛が勃発!

 

兄、富樫正親(まさちか)と弟、富樫幸千代(こうちよ)が後継ぎ争いでバトルします。

応仁の乱の影響で…)

 

一向宗としては兄貴の正親を応援して見事、幸千代を追い出してやります。

 

ただ、正親は考えました。

「今回の事は一向宗に助けてもらってよかったけれど、今後もし、一向宗が敵対してきたらヤバいな…」

(だったら、ず~っと仲良くやって行けるようにすればいいじゃん!と思うんですが…戦国大名の思考回路は普通と違う)

 

そして、正親は先々の余計な事を心配して、一向宗の弾圧に出ます!

それで、一向宗の方は?

 

もちろん「ふざけんな、バカヤロー!」ですよね。

いい所だけつまみ食いして、後はポイってか?

 

蓮如は、正親との争わぬよう言っていましたが、両者のピリピリムードは高まります。

そして、一向宗は正親のプレッシャーに負けて、越中に押し出されちゃった!

(蓮如も吉崎御坊にから退却)

 

ところが、これで収まらない一向宗は、正親が京都に行っている隙に一気に巻き返しを図ります。

 

そこで富樫泰高(やすたか、正親のおじさん)を担ぎあげて、加賀国を制圧しました。

この時、正親は高尾城で自害に追い込まれます。

 

 

こうして、一向宗を邪魔する奴らは消え、加賀国は「百姓の持ちたる国」へと生まれ変わりました。

 

まぁ、この一揆で富樫氏が完全に滅んだとか、百姓オンリーの独立国家になったワケじゃないんですが…一向宗にとっては、だいぶ住みやすい加賀国となったんですねぇ。

以前の加賀国とは、大違い。

 

一向一揆
一向一揆

 

蓮如は一向一揆の首謀者では無いんですが、蓮如無くしてこの大革命は成し得ませんでした。

そして、加賀は今後100年に渡り、一向宗の国として君臨する事になるのです。

(最後は信長に倒されますが…)

 

 

まとめ

蓮如は親鸞聖人の開いた本願寺を継ぐ、一向宗の僧侶。

当時の本願寺はどん底まで落ちぶれ、蓮如はお寺の復興に尽力します。

 

しかし、延暦寺の迫害を受けて蓮如は、京都から越前へと拠点を移す。

越前吉崎で活動を再開した連如は布教に大成功し、その影響力は加賀にも普及します。

 

すると、膨れ上がった信徒たちは加賀国の守護大名富樫氏の弾圧を受ける様になり、信徒衆たちは一揆行動で対抗。

やがて抗争に勝利した一向宗は、加賀国に「百姓の持ちたる国」を打ち建てました。

 

 

おまけ・蓮如と一休の頓智バトル

蓮如(一向宗)と一休は(禅宗)、互いに違う派閥のお坊さん。

でも、個人的には仲がよく、プライベートな親交があったと言われています。

二人とも風変りな坊主なので、蓮如&一休のエピソードには面白いのがいくつも残されています。

 

例えば…

ある日、蓮如の本願寺に一休さんが訪ねて来ました。

 

しかし、あいにく留守だったので一休さんはお寺に上がり込み、昼寝して待つ事にします。

本願寺の阿弥陀如来像にして…。

 

やがて、蓮如が帰宅するとびっくり仰天。

「どりゃー、あんた何しとるんですかー!阿弥陀様がぁ~」

 

11一休さん

 

もう一個いきます。

 

通り沿いに生えている一本の松の木に、大勢の人だかりができている…

その松の木には、こんな立て札が掛かっていました。

 

「この松を真っ直ぐに見る事の出来た者には、賞金をあげます。一休」※現在の30万円程

 

松の木は曲がりくねって、上から見ても横から見ても『真っ直ぐ』にはなりません。

 

そこへ蓮如が通り、村人たちから呼び止められます。

蓮如は暫し考え、答えが分かったようです。

 

そして「これは『曲がってる物は曲がってる』として物事を直視する、ってのが正解だね」

と、教えてくれました。

 

さらに「せっかくだから、賞金も頂くとするか!そしてら、みんなで山分けだね!」

とやります。

 

そして、鼻の穴を広げて一休さんの所に乗り込むのですが…

その立て札の裏には「蓮如は除く」と書いてありました。

 

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