政秀が切腹した理由、おさらい

織田信長の守役を仰せつかった平手政秀。

つまり、信長の「ジイ」みたいな仕事を受け持ったのですね。

 

政秀は、信長が元服した後も側近くで信長を支えて来ました。

しかし、信長が20歳の時に突然の自決

 

では、その理由とは?

 

一般的に言われているのが「信長の『うつけ』加減に注意を促すため」とのこと。

 

信長の弟の信行は、ちゃんとお利口さんにしているのに、信長ときたら…

オヤジさん(信秀)の葬式で位牌に焼香を投げつけたり、変な格好してうつけ者軍団で徒党を

組んだり、他人様の馬を欲しがってダダをこねたり、やりたい放題。

 

そこで「もう、カンベンしてくれ…私育て方が悪かった」

と言う理由で責任を取り、自刃したという流れ。

 

政秀は、死をもって最期にもう一度信長に注意を与えたかった…そのための切腹。

 

ん~、確かにそう言う事も少しはあるかも知れない。

でも、それだけじゃ辻褄が合わない事がいくつかあるんです。

 

政秀は信長の出来の悪さを悲観したのではなく、むしろ新時代のヒーローとして誰よりも

期待していたのではないでようか…?

そんな気がします。

 

 

沢彦宗恩

平手政秀は、信長を小さい頃から面倒見ていて「コイツはタダ者じゃないぞ…」と早々に気づきます。

気性は荒いが、聡明で運動神経もいいし、気も強い。

明らかに武将向きの人間。

 

政秀は信長の守役を仰せつかりますが、年がら年中信長の相手をしているワケじゃないです。

武将の仕事もあるし、外交や内政だってやらにゃなりません。

 

そこで、学問とか、兵法とか、行儀作法などを教育をする家庭教師を当てます。

そこで選ばれたのが沢彦宗恩(たくげんそうおん)と言うお坊さん。

 

信長の性質はパッと見はうつけ者に見えるので、そこを理解できる人じゃないと任せられません。

(せっかくの才能を潰しちゃマズいですからね)

 

「宗恩さん、この子(信長)の家庭教師を受けてもらいたいんですが…」

「はいはい、お請けします。それにしても面白いヤツを連れてきましたね」

「わかりますか?ちょっと変わってますが、バカじゃないですから」

「そのくらいの方が、やり甲斐があるってものです…」

 

 

宗恩と言えば武田信玄の恩師「快川紹喜」のマブダチ。

紹喜は信玄に刀で脅されても、ピクリともしない肚の据わった坊さん。

そんな人の親友ですから、宗恩だってタダ者ではありません。

 

また、そうでもないと信長みたいに破天荒な人間には対応できない。

だからこそ、宗恩は信長の教師に選ばれたのでした。

 

こうして、戦国時代の革命児は理解ある大人たちによってガッツリ教育を受けます。

 

ちなみに、父信秀の位牌に焼香を投げつけたのは宗恩の発案だとも言われています。

まぁ、それが史実通りか分かりませんが…

いずれにしても、政秀は破天荒な信長に対し非常識な先生を当て来たのです。

 

ならば、信長が多少のうつけ者行為をしたところで、そんなことは既に想定内。

むしろ、こじんまりとしたお利口さの方ががっかりした事でしょう。

(本当に馬鹿な事をしたら、ガツンと怒られたでしょうね…昔の武将ですから)

 

暴れ馬をどう調教し、育てていくか。

これが、政秀の教育でした。

 

もし、政秀が信長の事を万人受けする武将に育てたいなら、宗恩には教育を頼まないでしょう。

また、父信秀だって信長がまるっきりのバカに見えたら教育者を変えるはずです。

「こりゃ、イカン」と言う事で。

 

信秀は宗恩を信頼しているし、政秀は宗恩だからこそ教師を頼んでいる。

でも、信長はうつけ者(パッと見は…)。

 

一見、失敗かのように見える信長の教育。

しかし、信長は父信秀の志を受け継ぎ、政秀を死後も敬い、宗恩は参謀としても信長に仕え

続ける。       

 

これじゃ、政秀が信長の生育を気に病むところって無いです。

むしろ、大成功じゃないですか?

 

政秀もそういうつもりで信長の事を見ていたと思います。

<スポンサーリンク>

じゃあ、何で死ぬ必要があるのか???

 

 

尾張統一に命を捧げる

政秀が切腹した当時、織田家は後継ぎ争いでもめていました。

嫡男信長と弟信行とで、どちらが家督を継ぐか争っていたんです。

 

父信秀が家督を指名しないで死んでしまったので、織田家の家臣は信長派、信行派に分かれ

対立します。

頭数で言ったら、信行派の方が多い。

 

政秀は当然信長派なんですが、この争いは信長が勝つだろうと踏んでいました。

これしきの数に負ける信長では無い。

ただ、勝ち方が問題である。

 

オヤジさんが死んで、世代交代したタイミングで信長らしく勝てればより求心力は高まる

だろう。

そのためには若い連中が活躍し、新時代の幕開けを見せつけねばならない…これが大事である。

そして、信長時代の到来を知らしめすには、絶好のチャンスである。

 

信長はかねてより、うつけ者軍団を率いて徒党を組んだり、相撲を取ったりして結束を高めて

いました。

これは、ただ若者グループで遊んでいるのではなく、未来の家臣団を形成するための活動

だったのです。

みんなで集まれば、戦のシュミレーションなどもよくやっていました…。

そして、いよいよ信長の時代がやって来る。

 

そのためには政秀も一肌脱ごう、そんな風に考えていたに違いありません。

 

しかし、ここで信長を強力サポートしてはいけないんです。

あくまで信長の自力でないとダメです。

 

政秀は織田家の家老なんで、他の家臣に対しても影響力が強い。

政秀がいたから争いに勝った、と思われてはいけない。

あくまでも、うつけ者が勝利する事が大事。

 

ならば、自分の存在をこの世から消そう。

それも、誰の目にも明らかな様に。

自分の死をもって旧時代の終焉を告げるんだ。

そして今こそ、信長イズムぶち上げる時。

 

信長には伝えるべき事は既に伝えました。

やるべき事はもう分かっているはずです。

「政秀はここで補助輪を外しますから、後は自力で進んで行ってくださいね…」

 

こうして、平手政秀は自刃に至ります。

政秀からの強烈なエールを受け取って、信長の全身には思いっきり電流が流れました。

 

 

我が師の恩

信長は政秀の死後、尾張に政秀寺(せいしゅうじ)を建立してその死を弔っています。

(立派なお寺ですよ)

これは、政秀の事をどれだけ敬っていたかを物語りますね。

 

後に信長が近畿地方を手中に収める頃、織田の家臣が言いました。

「平手殿もここまでやるとは、思っても見ませんでしたでしょう。まさに快進撃ですね」

しかし、信長は…

「あんた、分かって無いな~。これをやらせる為にあの人は死んでいったんだよ」

 

信長の破天荒さは今さら説明は要らないと思います。

しかし、若い頃は散々うつけ者として白い目で見られ、いろんな所で注意を受けていました。

 

これが単なるバカなのか、度胸があるのかは見分けの難しい所。

それを理解出来たのが、平手政秀であり沢彦宗恩でした。

 

世間の間尺に合わないからと言って、片っ端から叩かれていたらさすがの信長だって腐ります。

もしくは、全員敵に回す…。

しかし、政秀らは違う角度からも信長を見つめ、時には盾になり守ってくれました。

 

たぶん、信長もそれは肌身に感じていた事でしょう。

受け止めてくれる人がいるからこそ、やり過ぎた時には反省が出来ると言うもの。

(信長の全てを受け入れたワケじゃ無いです。うるさいジジイだったと思います)

 

信長はそんなバカを繰り返して大人になり、バカを繰り返したが故に常人以上の感覚が育まれ

ました。

そして、戦国時代に大革命を起こします。

 

ただ、さすがの政秀も毛利や武田を倒すまでは考えていなかったでしょう。

当時とは勢力地図が違いますからね。 

 

 

ちなみに、政秀の孫(汎秀)は三方ヶ原の戦いで退却中に織田家臣から見捨てられて討死。

しかし、汎秀を見捨てた林秀貞、佐久間信盛、水野信元は信長から厳しい処分を食らってい

ます。

信長が政秀の一族を大切にしていた証です。

 

 

<スポンサーリンク>