1568年、戦国時代は一つの山場を迎えます。

織田信長の上洛です。

あんな危険なヤツが京都に入り込んだら、タダで済むわけがないですよ。

お陰で歴史の流れも変わらざるを得なくなりましたね。

1568年、信長が京都に乗り込んで来た!

駿河の今川氏と美濃の斉藤氏を倒した織田信長は、一躍有力大名の一員にのし上がりました。

そして「天下布武」を公言するに至ります。

 

僕は子供の頃、天下布武って「全ての国々を武力で制圧する事」だと思っていました。

いやぁ、勘違いしてましたね…。

その頃の「天下」って近畿周辺の地域のことだし、「布武」とは戦いなく治めるということ。

とても平和的なスローガンだったのですね…。

 

それはともかく…これは信長は「美濃と尾張だけでは終わりませんよ」

という意味であります。

 

そして「天下」を目指すのですから、せめて京都ぐらいまで支配下に置きたいワケです。

しかし、京都に上る切っ掛けがない…。

いきなり兵を挙げて殴り込んで行ったら、それじゃ単なる暴力行為になるので出来ない。

 

もうちょっと、ちゃんとした理由(大義名分)が欲しいんです。

 

そしたら、足利義昭の家臣であった明智光秀と出会い、これが切っ掛けとなり義昭の上洛サポートをする事になりました。

 

義昭は本来、将軍職に就くに相応しい人物。

兄さんの13代将軍「義輝」が暗殺された流れで他国に実を寄せていますが、本当は京都で将軍をやっていてもいい人。

でも、京都は三好氏が支配しているので、上洛出来ない。

 

そこで、三好氏やその仲間を蹴散らして、京都まで連れて行ってくれる人を探していました。

そしたら、織田信長って人がOKしてくれたんですね。

 

実に、渡りに船。

二人とも、願ったり叶ったりの組み合わせ。

 

しかし本当は、この上洛が室町幕府滅亡へのカウントダウンの始まりだったのです。

それが1568年の事でした。

(京都まではちゃんと連れて来てくれましたが…)

 

 

 

その時信玄は…

後に、織田信長の存在を大いに脅かした武田信玄

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信玄はあとあと足利義昭の要請を受けて上洛作戦を目論みますが、1568年当時はまだその段階ではありませんでした。

1560年に信長が今川義元を倒してくれたので、信玄の視線は駿河国に向いています。

義元の後を継いだ今川氏真は、ヘナチョコ武将なので「やるなら今!」だったのでした。

 

そして、徳川家康同盟を組んで駿河国に攻め入ります。

遠江は徳川駿河は武田で山分けしよう…」ってな感じで。

 

この時、信玄は念願の駿河の「海」を手に入れる事ができ、家康は三河国と遠江国の2国を支配し、二人ともホクホク。

いい時代でした。

 

勢いにのった信玄は、その翌年(1569年)に北条の小田原城を攻めています。

 

 

浅井長政は…

浅井長政と言えば、信長の義理の弟に当たります。

信長の妹「」を嫁さんに貰いましたからね。

で、長政と市が結婚したのが1568年の事でした。

 

信長は上洛する背後を狙われたらイヤですから、自分の妹を嫁に出して浅井と同盟を組みます。

(たぶん、急に決まったのでないでしょうか?)

 

でも、その2年後には織田と浅井は敵対して戦に及んでいます。(姉川の戦いなど)

非情な世界…。

 

 

長宗我部元親も頑張ってます

四国の英雄たる長宗我部元親

しかし、信長が上洛をした1568年当時は、まだ土佐国の真ん中ぐらいを平定した程度。

 

まだまだ、これからって感じ。

信長や家康に比べると、少し遅めのスタートでした。

その後は快進撃でしたが…。

 

 

伊達政宗

天下取りの野望を抱いた伊達政宗

しかし、信長が京都を押さえた頃、政宗はまだ1歳。

 

中央の方じゃ、もうレースが始まっちゃってます…。

これじゃ、遅いですよ。

 

東北のほうでブイブイ言わせても、先頭争いには参加出来ませんでした。

家康や信長とこれだけ時間差があると、後から追いかけても間に合わない…。

 

遅れて来た英雄、正宗。

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