【徳川家康とは?】家康が分かる「5つ」のポイント!意外と人間臭い…

12徳川家康中部の武将

今回は、徳川家康のお話。

歴史マニアでない人のための、分かりやすい家康話を5つお送りします。

 

朱印船貿易とは相手国いつから?8

 

徳川家康が関ヶ原の戦いで勝って江戸幕府を開いたのは、皆さん知っていると思いますので…もう少しだけ、突っ込んだ話を書きますね。

家康の奥さんの事とか、若い頃の話とか、死因の事など…

 

難しい話じゃないんで、サクッと読んで楽しんで下さい。

 

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今川で過ごした幼少期

幼い頃の徳川家康は、今川の人質として過ごしていました。

今川義元の監視下で。(お歯黒、お公家様風のあの人…)

 

いまがわよしもと11

 

家康の産まれた当時の松平家は、三河国(愛知県)にあります。

ただ、三河の松平家は、お隣の駿河国(静岡県)の今川氏の傘下にいたんですね。

 

そこで、松平家は今川家に恭順を示すために、人質を差し出します。

これが、幼い頃の徳川家康でした。(幼名・松平竹千代)

 

人質って言うと、ちょっと辛そうな感じがしますね。

過酷な状況で、不自由な暮らしみたいな…

 

でも、実際は美味しいものを沢山食べて、お勉強や武芸をしっかり学んで、しかも優しいおばあちゃんが一緒にいてくれました。

暮らしぶりそのものは、わりと幸せそうな感じ。

 

ただこれは、今川義元が家康を手なずけて、三河国の支配を強化するための策略。

家康を大事に育てて義元の事を父親みたいに慕わせ、今川一族の女性と結婚させちゃえば、松平を身内化出来ますからね。

 

しかし、家康の心には子供と言えども「俺は三河の武士だ」という気持ちがありました。

豊かな暮らしをさせてもらいながも、なかなか今川には染まりません。

 

そんなある日…家康は今川義元に許され、一時的に生まれ故郷の岡崎城へ帰る事が出来ました。

父親の墓参りをするために。

 

久しぶりに訪れた岡崎・・・懐かしいなぁ~

すると、松平の老家臣が「若殿…ちょっと、、内緒で見せたい物があるんです」と。

 

「ナニ?ナニ?」

家康は、岡崎城内にある蔵に案内されました。

 

内緒で見せてくれた蔵の中には、なんと…

ガッツリと食料や、金銭が貯め込んであるじゃないか!

 

え?三河は、貧乏な筈じゃないの!?

 

「ほら、見て下さいよ。これはねぇ『若が帰って来た時のために』って、みんなでセコセコ貯めたんです」

「ぬ、ぬ、ぬうぉ~何ですと~!?」

 

それを聞いた瞬間、家康の全身は涙と炎の塊となりました。

 

「みんな、待ってろよ~!俺が絶対に三河を取り戻してやるからな!」

 

112家康

 

 

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今川からの独立・桶狭間の戦い

織田信長が、大敵今川義元を一発逆転で破った、あの伝説の戦。

桶狭間の戦い。(1560年)

 

桶狭間22

 

この時、家康はまだ今川の人質をやっていました。

それで、家康は関ヶ原の戦いで…最前線の先頭で戦っています。

 

家康の任務は織田軍に斬り込んで行って、攻撃を受けている大高城に食料を届けること。

そして、見事織田軍を突破して大高城に辿り着きます。

 

その後、家康は大高城を守りながら、今川義元の本隊の到着を待ちました。

ところが、義元の部隊がなかなかやって来ない…

 

(。´・ω・)ん?どうして?なんでかなぁ?

 

すると、とんでもない知らせが舞い込んできます。

 

「義元様が、討ち取られました!」

「ウソつけ、ばかやろー!」

「いや、マジっす!」

「…マジ?」

 

血の気がサーっと引く家康。

「もう、ダメだ俺。一巻の終わり…」

 

家康は、必死に守った大高城を出て、先祖の眠る大樹寺(だいじゅじ)へ行気き、切腹の覚悟を決めます。

すると、お寺の和尚さんが、こんな話をしてくれました。

 

「この世は、果てしない戦国の世界。

暴力と憎しみと欲望が渦巻いています。

しかし、心の中に百分の一ミリでも幸せを願う気持ちがあるなら…一心に祈りなさい。

それこそが、人生の突破口を開くでしょう」

 

11家康 寺

 

切腹を思いとどまって、深い思いを巡らす家康。

するとさらに思いがけない、知らせが入りました!

 

戦に敗れた今川が、松平家の城である岡崎城を放棄&退却した、という情報。

「え?ホント?…ってことは、岡崎城にはもう今川いないって事か?よっしゃ頂き!」

 

こうして、家康は「棚からぼたもち」で、岡崎城を取り戻すことが出来ました。

その後、家康は今川から独立して、信長+家康時代を切り開いていきます。

 

岡崎城11

 

 

武田信玄にボロ負け・三方ヶ原の戦い

織田信長が、京都に入り勢力を強めると…信長は将軍の足利義昭を無視して、勝手放題。

 

将軍家のプライドを気付付けられた義昭は、諸大名に呼び掛けて「打倒、信長!」を画策します。

いわゆる、信長包囲網ってヤツです。

 

で、このプロジェクトのボスキャラが武田信玄

信玄は京都を目指し、じわじわ進行を始めました。

 

12武田信玄

 

そして、その道すがらには家康の領地である、三河国遠江国を通過します。

 

国主である家康は、敵軍を土足で上がらせるワケにはいきません。

「タダで通れると思うなよ!武田信玄!」

 

そして、浜松城で武田軍団を待ち構えていたら…

あれれ~、武田素通り?

 

「ちょっと待てや!信玄さんよ~。

オレたちはこの日のために気合入れて準備してんのに、ドタキャンは失礼でしょ!」

 

って事で、家康は武田を背後から襲います。

でも、これは武田の作戦。

 

家康は、武田の背後を襲ったつもりでしたが…実は、浜松城から引き釣り出されていた。

まんまとワナ引っかかった家康の軍は、ズタズタのボコボコの刑に…

 

これ以上ない恐怖を味わった家康は、泣きながら浜松城へ逃げ帰りました。

家康史上、最低最悪の惨敗。

 

12徳川家康

 

しかし、三方ヶ原の経験は、家康に大きな教訓を与えます。

 

家康の名言に「上を見るな、身のほどを知れ

と言うのがありますが、この言葉は三方ヶ原での大敗があってこその、リアルな名言。

 

家康ってああ見えて?本当は勇猛で、武芸も達者。

兵法はガッツリ学んでいるし、頭もいい。

かなりの猛者なんです。

 

しかし、そんな家康でもズタボコにする武田。

上には上がいる…

 

だから「身の程を知れ」

それは、人を見下したお説教のセリフじゃなくて、どん底の恐怖体験から学んだ真実の教訓なのでした。

 

ちなみに、関ヶ原の戦いで武田軍に突撃しようと馬に乗り上げた家康は

「それは、あまりにも無茶ですよ」と家臣に引きずり降ろされた、と言う話。

 

家康の妻・築山殿(瀬名姫)

家康は、16歳で築山殿と結婚します。

もちろん、政略結婚です。

 

正室側室継室とは5

築山殿

 

築山殿は、今川一族(義元の姪)の娘さん。

で、この結婚は、家康を今川に取り込むための作戦です。

 

その当時の家康は、築山殿との結婚を断れません。

まだ、今川の人質の身でしたので…。

 

作戦でも、結婚生活が幸せならいいんですが…若干、ぎくしゃくムードの家康夫婦。

 

人質の家康に対して、上から目線の築山殿。

(実際に、築山殿の方が家柄が上&性格のキツ~イ姉さん女房!)

家康の母さんとも仲が悪いし。

 

この世で、高慢ちきな女性ほど扱いづらいものはありません。

 

で、桶狭間の戦いを機にして、家康が今川から織田に乗り換えるとさらに、御機嫌斜めな築山殿。

(家康が織田組に転向したおかげで、築山殿の父さんが今川で自害させられた…)

 

挙句の果てには「武田と裏でつながっている」と、疑いをかけられて処刑されちゃう。

なんとも、うまくいかない夫婦。

 

当初、その疑惑を追及したのは織田信長で「処刑しろ」ぐらいの事は言いました。

でも、本心はそこまで本気じゃなくて「マジ、気を付けてくれよ」的な意味で。

 

家康も、そのくらいの事は分かっています。

だから、厳重注意ぐらいで良かったのかも知れません。

 

とことが、ところが…築山殿は、浜松の遠州敷智郡富塚に呼び出されて・・・バサーッ。

 

後に、家康は豊臣秀吉の妹「朝日姫・44歳」と無理やりに、結婚させられますが…

こっちの方の嫁さんは、普通に大事にしています。

 

正室側室継室とは3

朝日

 

 

家康の趣味

徳川家康は、かなり多趣味な人でした。

有名なのは鷹狩、薬の調合、囲碁、猿楽、香道など。

 

また、武芸や学問も好きだったようです。

ただ、茶道はそれほどやらなかった模様。

 

いろいろ書いちゃましたけど、特にハマったのは鷹狩薬の調合

 

鷹狩は、暇さえあれば出動していました。

 

113家康

 

薬はこだわり過ぎて、医者の言う事を聞かないほど。

体調が悪くなって自分の薬で治そうとしたら、かえって悪化させて家臣に叱られる…など。

 

でも、ちゃんと効く薬も作ってましたよ。

一応、マニアの部類なんで。

 

 

おまけ・家康の死因

徳川家康の死因は、「鯛のてんぷらの喰い過ぎ

僕は、中学の歴史の時間にそう習いました。

(テストには、出ませんでしたが)

 

皆さんの中にも、同じように学んだ人も多いかも知れませんね。

でも、現代の主流的な説は「胃がん」。

 

死ぬ間際の家康はだんだんと痩せていって、吐血や黒い便、そしてお腹に固いしこりがあったと伝わります。

確かに、がんっぽい感じ。

 

あと他に、家康の死亡論で話題に出るのが「すでに死んでた」説。

 

関ヶ原に戦いで、負傷して死んじゃって、その後は影武者が家康を演じてた…という話。

で、その後影武者が必要なくなると、毒入り天ぷらで始末( ゚Д゚)

 

ちなみに、鯛のてんぷらに関しては、現代の小麦粉の衣がサクッとした触感の天ぷらじゃなくて、さつま揚げみたいなやつとか、南蛮漬け的は食べ物だったという説があります。

どっちが本物か、良く分らないんですけど…

 

114家康天ぷら

 

家康は健康マニアで、食事の節制や体調管理にはだいぶ気を使っていたようなので、てんぷらの食い過ぎってのは、あり得ない気がします。

贅沢するのが嫌いな人だったし。

 

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