上杉景勝(かげかつ)謙信の跡を継いだ哲人武将

謙信亡き後の上杉家をついだ上杉景勝。

謙信ほどのカリスマ性は無いですけど、なかなか渋好みする味のある武将です。

ただ、景勝本人の人生はずーっと苦労の連続。

家督争いでもめて、関ヶ原では西軍に付き、江戸時代に入ってからは借金地獄に突入。

苦難を背負い続けて生き抜いた武将でした。

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上杉景勝(うえすぎかげかつ) 

 

戦国のカリスマ「上杉謙信」の跡を継いだのは、謙信の養子である「上杉景勝」。

上杉宗家17代目の当主。(1556年生まれ)

 

世間的にはどうしても謙信知名度が高過ぎて、次代の景勝はちょっとマイナーなイメージ。

でも、その実力は折り紙付きです。

 

謙信亡き後も領地をバンバン広げているし(信濃、越後、北陸)秀吉の下では五大老に任ぜられています。

また、義理堅いところはある意味、謙信以上かも知れません。

「越後の龍」みたいなド派手のネームは持っていないけれど、渋好みする武将ですね。

 

 

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御館の乱 跡継ぎ問題でバトル

 

謙信の死後、当主の座を継いだ景勝ですが、世代交代をする時はかなりドタバタしました。

 

まず、当主候補である景勝に対抗して上杉景虎(北条からの養子)が張り合ってきます。

(景勝も養子なんですけど…)

これは話し合いでは折り合いがつかず、後に「御館の乱」(1578年)というバトルに発展します。

 

この戦は、とりあえず御館の乱は景勝が勝利しますが…その後も内部争いが収まらず双方が疲弊してきます。

しかも、そのタイミングで織田信長が能登を横取りして、さらに越後へ攻め込もうとしている!

 

柴田勝家とか、佐々成政といった織田家臣の猛者がこちらを狙っていたのです。

これには、さすがの景勝も相当まいりましたよ。

 

ところが、この攻勢はある切っ掛けから一変します。

 

本能寺の変が起こったからです。

上杉どころでは無くなってしまった…。

おかげで景勝は命拾いしました。

 

これを機に景勝は秀吉との関係性を築きながら、信濃、越後、北陸へと支配領域を広げていきます。

 

そして、この時のは所領の石高は90万石

苦労して後を継いだ甲斐がありましたね…。

(この時が一番よかったなあ)

 

 

 

直江兼続 終生の家臣そして親友

 

景勝の活躍を強く支えたのは直江兼続(かねつぐ)の存在です。

景勝と兼続は主従の間柄であるのと同時に兄弟、親友のような仲でした。

 

兼続は6歳の頃から景勝に仕えています。

当時、景勝は11歳

(6歳の子供が人に仕えてもあまり役には立たないでしょう。当時、小さい頃は景勝の方が兼続の面倒を見ていた位じゃないでしょうか。兄ちゃんと弟みたいな感じで。。。)

 

そして、兼続はかなり有能な人間。

そんな人が身近に居てくれたら、そりゃ心強いに決まっています。

 

頭が良くて、戦っても強くて、金儲けも上手くて、忠誠心があって、いい根性してる。

 

豊臣秀吉も兼続のことを惚れ込んで、ヘッドハンティングしようと声を掛けるのですが兼続は絶対にOKしてくれません。

「わたしのボスは、景勝さんだけなんですよ」と。

 

直江状こそ兼続の生き様

 

兼続の面白い所は、単なる優等生じゃ無いってこと。

なんでもスマートにやり過ごすタイプじゃ無いんです。

 

実は、結構やんちゃな性格の持ち主でした。

言われたら言い返す、やられたらやり返す。

そういう人でした。

 

そして、その象徴とも言えるのが

かの有名な「直江状」です。

 

これは「直江状」と言う名の挑戦状です。

景勝に「上洛を命令」する家康に対して反抗する意思を書いた手紙。

 

「家康さん、私たちはあなたみたいな人には従いません。御用があるならこっちに来て下さいよ」という内容でした。(家康はカンカンに怒ります)

実はこれが、後でとんでもない事(上杉討伐)になりますが、景勝は兼続をクビにする様な事はしません。

 

それどころか、その後の苦難の道のりを(関ヶ原→減封→貧乏)をがっつり手を携えて生きて行くのです。

(直江状だろうと、景勝状だろうと内容は同じだったかも知れませんね…)

 

 

 

渋面の大将

 

武将たる者、人前でヘラヘラしてちゃダメです。

相手にナメられるといけませんから。

ちょっと怖いくらいで丁度いい。

 

でも、景勝はさらにその上を行きます。

 

家臣の前では絶対に笑いません

もちろん無口です。

いつでも眉間にシワが寄っています。

(めっちゃ、やりづらい人ですね…)

 

そんな景勝なんですが、一度だけ家臣達に笑顔を見せた事がありました。

 

お猿の天使が舞い降りた 

 

それは、家臣団との会議の最中景勝が可愛がっていた猿が不意にやって来て景勝の膝の上にちょこんと座り…景勝のするような手振りやしぐさをして見せたのです。

(偶然です。お猿の芸じゃ無いです。)

 

これを見た景勝は思わず「こいつ、可愛いやつだなぁ〜」と言う気持ちが顔に出てしまいました。

家臣団の皆さんもそんな景勝を見て、どれだけほっとした事でしょう。

「景勝様もやっぱ人間なんだなぁ〜」って。

 

ま、その一回だけなんですけど。

 

 

 

関ヶ原ショック!大減封だけど…それも武士の道

 

直江状は家康の逆鱗を蹴っ飛ばして、関ヶ原の戦いというダイナマイトに火を付けます。

そして、全国の武将が西軍(豊臣方)東軍(徳川方)に別れて戦いました。

 

勝ったのは東軍。

上杉は敗れた西軍に属していました…。

 

関ヶ原の後、上杉家は思いっきり所領を減らされます。

会津120万石→米沢30万石

収入は4分の1に激減。

 

しかし、景勝は石高が減ったからと言って家臣をリストラする様な事はしませんでした。

 

だから…藩の財政も家臣の暮らしも苦しいったら、ありゃしない。

簡単に従業員さん達のクビを切らないのは立派なんですが、この急激な変化に対応するのは容易なこっちゃありません。

 

皆でカツカツの生活。

赤字大名、米沢藩上杉家。

そんな生活が長年続きます。

 

200年後に現れた救世主

 

財政が苦しいので借金もしました。

かなりの金額でした。

 

だけど、そのお金をちょっとづつ、ちょっとづつ返していってついに完済。

 

しかも、220年をかけて返済。

貸したほうも忘れてんじゃないか、ってくらいの年月です。

(ここまでくると、ロマンを感じちゃいます…)

 

借金と共に受け継いだ景勝の義心。

これを、200年以上もの歳月をかけて噛み締めます。

 

そして最後の仕上げに現れたのが、あの伝説の男「上杉鷹山」でした!

成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり」あの人です。

 

最後の返済が終わったとき、謙信や景勝はどんな思いで天国から見ていた事でしょうね。

 

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