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片倉重長(かたくらしげなが)政宗の片腕
片倉重長は伊達家の伝説的家臣、片倉景綱(かげつな)の息子。
通称「小十朗」。
小十朗の名は父、景綱から受け継いだ名誉の通称であります。
(親子あわせて二人小十朗とも言う)
それは、伊達三傑と称された父「小十朗景綱」に決して劣らぬ武将であると、周囲からも認められていた証拠です。
重長は勇猛さと知略を併せ持つハイパー武将でした。
強過ぎて「鬼小十朗」とも言われています。
ただ、生まれて来るのがちょっと遅かった。(1585年生まれ)
遅れて来た英雄、政宗よりも更に17歳若い。
ちなみに、初陣は関ヶ原の戦いでした。
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大阪夏の陣で快挙 道明寺の戦い
重長が大人に成る頃には、戦国時代もほとんど終わっていて戦の数も激減。
(ちょっと,残念)
だから、合戦でドンパチやって活躍する機会もあんまりない。
そこで、数少ない参戦の一つが大阪夏の陣(1615年)でした。
夏の陣では、重長は1000人の兵を率いて東軍の先鋒をつとめます。
そして、91もの敵の首級を挙げなんと、後藤又兵衛(基次)の軍をも撃退してしまいました。
後藤又兵衛!あのモンスター又兵衛に討ち勝ったのです。
兵力にいくらかの差はあったにしても、大手柄です。
(対戦者としては、又兵衛がいなくなったでけでもほっとしますから)
これを機に重長は「鬼小十朗」と呼ばれ、父から受け継いだ「小十朗」の名を一つグレードアップしました。
幸村と重綱+お梅
大阪夏の陣で、西軍(豊臣方)の真田幸村は東軍(徳川方)の片倉重長と対戦しました。
ご存じの通りこの合戦は東軍が勝利しますが…戦の途中で幸村は、戦況が西軍に不利である事を悟る。
そこで、幸村は死ぬ前に自分の4人の子供たちを敵将である重長に預けます。
小十朗ならきっとOKしてくれるだろう、と。
(戦場に子供が居たのか…?)
なんという信頼関係なんでしょう。
対戦中の敵の武将に我が子を預けるなんて、しかも4人も。(五人という説もあります)
この期におよんで政治的な策略はないでしょう。
里親として小十朗を選んだのですね。
これで、幸村も安心して死ねます?
何だか試合放棄してい様にも見えますが、それはそれ。
ちなみに、幸村が託した子供たちの中に「お梅」という女の子がいて、その娘は後に重長の奥さん(継室)になっています。
戦から帰って来た小十朗は…
重長は幸長から預かった子供たちを白石城に迎えこっそり養育しました。
こっそりって言ったって、牢屋に閉じ込めるなんて事じゃなくて、皆で黙認していたと言う意味です。
(あまり大っぴらにしちゃうとマズいんです)
教育だってきちんと施してあげました。
幸村の子供たちは成人すると、それぞれ伊達に仕官したり、いいところに嫁に行ったりしてます。
重長は、敵将幸村との約束を120%守ってくれたのです。
「鬼小十朗」はこの時ばかりは「神様小十朗」でした。
…と言うお話。
(ちょっと伝説が入っているかもしれない)
まとめ
知勇併せ持ち、父「片倉景綱」と共に伊達家を支えた「片倉重長」。
その実力は決して英雄景綱に劣る事無く、栄誉の通称「小十朗」を名乗るに十分な器量であった。
時代の流れの中で戦働きの機会は少なくなったが、いざとなれば、激強武将を倒すほどの力を発揮する。
それは「鬼」と呼ばれるほどの凄まじさ。
また人望も厚く、それは敵将からも一目置かれる程の存在であった。