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半兵衛と官兵衛、二人で両兵衛
竹中半兵衛と黒田官兵衛は豊臣秀吉に仕えた超絶軍師。
この二人がいたからこそ、秀吉は天下を取れたと言っても過言では無いでしょう。
調略をしかけたり、城攻めを考案したり、軍隊の配置を整えたり、攻撃のプランを立てたり軍師の仕事はとても重要です。
そして二人の両兵衛は予想以上の働きをして、秀吉(信長もです)から絶大なる信用を勝ち取った。
いや、それ以上に戦国時代の流れを変えたとも言えるでしょう。
今回はそんな「裏の天下人、両兵衛」についてお話しします。
ちなみに、テレビではあまり描かれませんが、占いで進軍の日取りを決めたり、首実験の作法を指導をする(ちょっと怖い…)のも軍師の役割だったそうです。
奥が深いんですねぇ~、軍師の仕事って。
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竹中半兵衛 早熟の天才
ずば抜けた才能
半兵衛はもともと美濃の斉藤氏の家臣でした。
若い頃から軍師としての才能を発揮し、17歳の時には尾張の織田信長の侵略を食い止めています。
「まぐれ」じゃ無いです。
連続で勝ってますから。
当時、信長もまだ若かったけれど(28歳ぐらい)半兵衛の方はまだ高校生ですよ。
根本的に何かが違うんでしょうね。
そして、20歳の時に主君、斉藤龍興の稲場山城を乗っ取ってしまいます。
龍興がのんだくれて職務怠慢だったので、お仕置きをしてやったのです。
しかも、たった16人で。
(お城はその後、龍興に返してあげます)
そうしたら、今度は信長が「奪ったお城を譲ってくれ」と連絡してきます。
半兵衛は、べつにそういうつもりでクーデターやったワケじゃ無いんでお断りします。
龍興をシャキッとさせたいから、荒療治をしたまでです。
半兵衛からすれば「どいつも、こいつも分かってねーなー」
って思っていたかも知れませんね。
(若干の下心はあったそうですが…)
三顧の礼で織田家にやって来る
その後、半兵衛は斉藤家から離れ → 浅井家 → 織田家と流れていきます。
織田家に来る時は、ちょっと大変でした。
何度も何度もお願いして、やっと来てもらえたのです。
最初、半兵衛は織田家に仕えるのが嫌だったんですね。
「信長さんは好きじゃないな~、ヤボなこと言うし…」なんて思ってました。
でも、誘ってくれる秀吉となら気が合いそうなのでOKしました。
ちょうど、信長包囲網が敷かれようとしている所だったので良い軍師が欲しかったところです。(かなりのピンチでした)
そして、織田家に来た半兵衛はもちろん、大活躍。
例えば、姉川の戦いでは猛攻激しい浅井軍に対して、半兵衛は超マニアックな陣形を敷いて追い返してしまうとか、いろいろ。
(もちろん、他にも城の調略とかやってますが長くなるので、また今度)
そんな感じで、織田家で活躍しているともう一人の両兵衛がやって来ます。
黒田官兵衛です。
命の恩人、半兵衛
半兵衛と官兵衛が一緒に織田家に在籍したのは2年だけだったのですが、そのわずかな接点に、一生忘れられない出来事が起こります。
1578年の事でした。
信長の家臣(荒木村重)が裏切って、織田家を去ってしまいました。
そこで、黒田官兵衛は村重を説得しようと有岡城に向かいます。
すると、村重を説得するどころか…逆に捕らえられて帰って来れなくなります。
(有岡城の牢屋にぶち込まれちゃました)
信長は「官兵衛のヤツ裏切りやがったな…」と勘違いします。
そして、秀吉に官兵衛の息子(黒田長政)を処刑して首を持って来いと命じます。
(裏切り者の息子が生きていたら、後が面倒ですからね)
しかし半兵衛は「官兵衛はそんな事するヤツじゃないよ」
と官兵衛の息子をかくして、秀吉に別の首を持って行かせます。
(え?どこから持って来たの?ばれたらヤバいよね?)
それから1年後、官兵衛はやっと救出され…有岡城から帰って来る事が出来ました。
事の次第を聞いた官兵衛はもう…なんていうか…言葉にできませんよ。
涙が出る、なんてレベルじゃ無いですよね。
息子を救って、自分を信じてくれて、助け出される事を予見していた!?
(失敗したら半兵衛が殺されるし…)
半兵衛さん…あんたって人は…超能力者ですか?
ちょっと、スゴ過ぎるんですけど。
しかし、そんな半兵衛も36歳でその生涯を閉じます。
肺結核でした。
(体が弱い人でしたね)
早過ぎる…あまりにも残念です。
黒田官兵衛 天下取りの案内人
半兵衛との出会い
官兵衛はもともと播磨国(兵庫県)の武将でしたが、信長の勢力が播磨に及ぶと織田の軍門に下ります。
(1575年の事でした)
さて、織田家に来て暫くすると有岡城の戦い(1578年)が起こります。
荒木村重が謀反をおこして有岡城の立てこもってしまったのです。
官兵衛はそんな村重を相手に説得しようと有岡城に行きますが…捕まって牢屋にぶち込まれます。
(さっき書きましたね)
そして、一年後にようやく救出。
帰ってみると、半兵衛には相当世話になった事を知ります。
官兵衛は半兵衛への恩義をいつまでも忘れず、その思いは子から孫へと受け継がれていきました。
連戦連勝 天下取りへの道
しかし、半兵衛は36歳の若さで亡くなります。
その後は、官兵衛が秀吉のメイン軍師となるわけですが、これがまた、半兵衛に劣らぬ優秀さ。
あまりにも優秀なので、秀吉が警戒したほどです。
「官兵衛が天下を取りに来たら、オレ負けちゃうかも…」
なんて心配したそうです。
官兵衛はあの手この手で敵を退治していきますが、
一番有名なのは備中高松城の「水攻め」(1582年)。
毛利討伐に向かった秀吉軍は備中高松城を攻めますが、まともにやってると、勢力の大きい毛利は倒しきれない。
秀吉は城攻めのプロなんですが、それでも手こずりそう…。
そこで、官兵衛は水攻めを提案します。
近くの川から水を引いて、それをお城の周りに流し込む。
(お城の周りを土木工事して堤防を造った)
すると、備中高松城の周りは湖状態。
お城は100パーセント孤立。
毛利はぶったまげました。
これなら攻撃も出来ないけど、救援も出来ない。
よって、放っておけば備中高松城は自滅するしかない。
もの凄い作戦ですね…。
こんな事されたら、精神的にもかなり追い込まれる。
そして、ここで改めて毛利と交渉。
勝てる見込みのない毛利は話し合いに応じるしかありません。
結局、備中高松城の城主清水宗治の首をはねる事で決着がつきました。
実はその間、京都では本能寺の変がありまして秀吉の軍がその情報をキャッチします。
知らせを聞いた秀吉はもの凄いショックを受けますが、官兵衛はこう言いました。
「秀吉さん、チャンス到来ですよ…」
すると、秀吉はカンカンになって怒ります。
「コラ官兵衛、不謹慎な事を言うんじゃないっ!!」
(秀吉は一応、信長をリスペクトしてました)
秀吉の怒りはごもっともなんですが、その後の展開は官兵衛の言った通り。
このチャンスが巡って来なければ、秀吉は天下人になれなかったワケですから。
※本能寺の変の黒幕は官兵衛だと言う説もあります。毛利討伐から光秀退治に速攻で取り掛かれた(中国大返し)のも、官兵衛の手腕による所が大きい。
その後の両兵衛
竹中半兵衛は36歳で死亡してしまいたが、後継ぎはちゃんと残してありました。
竹中重門です。
しかし、重門は当時6歳。
赤ちゃんに毛の生えた様なものです。
そこで、官兵衛が重門の後見人を務めてくれました。
半兵衛は息子の命の恩人です。
だから、こんどは官兵衛が恩返しをする番です。
(半兵衛より、官兵衛のほうが金持ちですから、後見してもらう方もありがたいかも…)
重門は成人すると、官兵衛の息子長政と一緒に関ヶ原の戦いに参戦しています。
彼らは兄弟みたいなものです。
さらに、孫の代になると重門の息子が黒田家の重臣となって活躍したそうです。
いい話じゃないですか。
きっと、後世になっても互いのご先祖様を讃え合っていた事でしょうね。