北条早雲(伊勢盛時)は後北条氏の元祖

戦国武将のトップバッターとも言える北条早雲

 

早雲の魅力はなんと言っても、ミステリアスなムード。

風来坊みたいな素浪人がどこからともなく現れて…それが、いつしか戦国大名として名乗りを上げていく。

 

と、言うのが昔の早雲伝説だったのですが…今どきの説では、そんなに怪しい人物ではないと知られてきました。

 

う〜む、、なんだかそれってスッキリしたような気もするけど、味けないような気もします。

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鎌倉時代の北条との関係は?

 

北条早雲は、鎌倉時代の北条家の血筋で無いそうです。

しかも早雲は自分でも「北条」を名乗っていません。

 

北条を名乗り出したのは息子の北条氏綱(うじつな)の代になってからです。

 

もちろん鎌倉時代の北条の事は意識していました。

関東で「北条」を名乗ったらカッコいいじゃん、、、ってな感じで。

政治家として尊敬する気持ちもあったのかも知れません。

 

ただ、鎌倉の北条氏と全然関係ないと言うわけでもありません。

 

たしか、早雲か氏綱の代で鎌倉北条末裔の人の養子になっていますので。

ぎりぎりセーフ、一応合法的に北条を名乗れる資格を持っています。

 

でも、鎌倉時代の北条氏と区別するために「後北条氏」とか「小田原北条氏」なんて呼ばれたりもします。

 

※北条氏綱→「勝って兜の緒を締めろ」の言葉を残した人です。この人だったんですね!

 

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早雲はどこから来たの?

 

早雲の生まれたのは備中国(岡山県)だと言われています。

早雲のご先祖様に当たる伊勢平氏が岡山県の方に土地を持っているらしく、おそらくその辺が出生の地ではないかと言う意見をよく耳にします。

 

昔は謎の素浪人が突然出世した、というようなストーリーが流行っていましたが…最近の研究では、もう少し詳しいところまで分かってきました。

家柄もそこそこ良い家系だそうですね。

 

謎のミラクル武将、というワケではなさそうです。

 

 

 

何をやっていた人?

 

大名としてデビューする前は、京都で働いていました。

将軍や大名に仕える「申し継ぎ衆」という仕事をしていました。

つまり、将軍や大名の秘書みたいなものですね。

足利義視に仕えていました)

 

早雲のお父さんも同じ様な仕事をしていて、この手の業務を代々担っている家系のようです。

素浪人とか怪しい坊さんではなくて、キッチリとしたお仕事をしていました。

 

 

 

出世のきっかけは?

 

今川氏親(うじちか)は早雲の甥っ子に当たる人物。

この氏親が今川の家督を相続する時には、ずいぶん早雲に助けられ感謝されます。

 

それを切っ掛けに、早雲は氏親から小さい城(興国寺城、静岡県沼津)をもらって、関東へ進出する足がかりとする。

 

とりあえず、最初に貰った城から出発して、伊豆方面の平定へと繋げて行きます。

ここから早雲の国取り物語が始まりました。

 

 

 

どこまで領地を広げたの?

 

早雲の代では伊豆国相模国(静岡県と神奈川県)を平定しました。

裸一貫でここまでやるとは、たいしたものです。

 

最初は城無し領地なし家督なしでしたからね。

お金もそれほど無かったでしょう。

サラリーマンでしたから。

 

早雲は領地を広げる時は武力で押さえつけるよりも、政策で勝負するタイプでした。

これが早雲の強みだったのですね。

 

戦国武将としてはわりとスマートなタイプです。

「どけどけ〜、オラオラ〜」じゃないんですね。

 

 

性格は?

 

ご本人に直接あった事が無いんであまり自信はないんですが…たぶん、まじめで誠実な人ですよ。

少なくとも、表面上は。

 

野心家ではあったと思いますが、チャラチャラした性格ではないでしょう。

そしてもの凄い倹約家(ケチでは無いですけど…)でもあります。

 

若い頃は京都で応仁の乱を目の当たりにし、市民の苦しみを肌身に感じました。

そして、その経験が自分で国づくりする時に生きているようです。

 

大国を治める領主としては、民衆からの支持率はかなり高いです。

年貢も安めに設定してくれました。

文治派ですね、武断派じゃなくて。

 

 

 

戦闘能力は?

 

意外と強い方だと思います。

事務系武将だからヘナチョコってワケっでもないんです。

 

もしかしたら、京都にいたおかげで関東の武将達より新しい戦術を知っていたかも知れません。

 

早雲と同年齢で太田道灌(上杉の家臣)という武将がいまして、これが鬼強でした。

戦い方が上手かったんです(戦術マニアでした)。

 

早雲もこのタイプかもしれない…。

 

 

隠居した後

 

早雲の代では領地伊豆相模まで広げました。

この時、御年85歳

 

すごい爺さんです。

(もう少し若いという説がありますが…)

 

その後は、2代目の氏綱にバトンタッチして…さらに武蔵国(東京、埼玉)下総国(千葉県の上の方)まで領地を広げます。

 

それは早雲に負けない快進撃でした。

(関東の中心をガッツリ掴んでます)

 

そして、この頃から名前を伊勢から北条にチェンジしていきます。

いつまでも伊勢のままだと、なんだかよそ者みたいな感じがしたんですね。

 

そこで、北条の名前を利用します。

関東を支配する正当性をイメージ的に表現したんです。

 

自分達でも「鎌倉時代からの北条家を受け継いでいますよ」と、みんなにアピールしたり荒れ果てていた鎌倉の鶴岡八幡宮をきれいに直したりしてました。

 

早雲はその頃にはすでに死んでますが、後世になって「伊勢盛時」はじめて「北条早雲」と呼ばれるようになります。

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