釣り野伏とは島津家が得意とした「おとり戦術」の一つ。

対戦した敵軍に敗走と見せかけ、島津の包囲網の中へと誘い込む。

敵軍は追撃したつもりが袋のネズミ!?

 

大友宗麟龍造寺隆信も釣り野伏で撃破されました。

 

この戦術で島津は九州全土を統一だぜぃ!

(と思いきや…秀吉にジャマされちゃいました)

 

今回は、釣り野伏の紹介です、、、

 

耳川の戦い(島津vs大友)

1578年日向国(宮崎県)の耳川周辺での合戦。

 

当時、九州地方では「大友」「島津」「龍蔵寺」の3大名大名が互いの勢力を競い合っていました。

 

で、耳川の戦いは大友島津対戦ですね。

 

九州の真ん中で両雄が激突

九州の上の方から大友が…下の方からは島津が…それぞれの勢力を広げていって、真ん中あたりでぶつかります。

 

そこが日向国の耳川でした。

大友4万の兵力に対し島津は約2万

 

序盤大友ペース。

とりあえず、大友軍は島津の延岡城を奪いさらに高城(たかじょう)を囲んで、猛攻をかけます。

おまけに大砲「国崩し」もぶっ放なす。

(日本初の大砲攻撃)

 

ところが、なかなか島津は落ちてくれない。

 

そうこうするうちに、島津の援軍が到着。

その時、大友の軍には宗麟が陣にいなくて、だんだんと指揮系統が乱れ始めました。

 

そろそろ行くか、必殺の…

そして、これをチャンスと見た島津は「釣り野伏」を繰り出します。

(整然と攻めて来る部隊はおとりに引っかかってくれません…)

 

島津は戦況をひっくり返し、さらに高城にこもっていた兵士まで出撃して大友軍を追い返します。

島津武将は猛勇の塊なので、勢いづくと手が付けられません。

 

逃げる大友は島津に追撃されて耳川まで追い詰められます。

まさに背水の陣。

 

しかし、勢いに乗る島津軍の動きを止めることは出来ず…耳川に押し出された大友軍は水嵩を増した激流に飲まれます。

(大雨の影響で耳川は増水していた)

 

勝敗は決しました。

大友軍惨敗

 

これ以降、大友家は大名として衰退の道を辿り

代わりに肥前(佐賀県)の龍造寺家が台頭してきます。

 

(※龍造寺隆信 → 肥前の熊

 

 

沖田畷の戦い(島津VS龍造寺)

1584年長崎県島原での合戦。

 

おきたなわて」って読むんですって。

ちょっと難しいですね。

 

耳川の戦いボロ負けした大友氏は、その後パワーダウンして肥前の龍造寺隆信に所領を食いちぎられていきます。

 

そして島津は日向国にまで支配地域を広げ、九州の下半分は島津のもの。

 

となれば、次の対戦は島津 VS 龍造寺

九州の頂上決戦です。

 

傲慢な隆信

きかっけは龍造寺家臣の裏切りから始まりました。

 

龍造寺隆信って頭が良くて、戦も強いんですけど人望が無い。

オレ様的な性格で暴力的。

 

最初はみんな隆信に従ってくれるんですが、そのうち嫌になって生理的に受付けなる。

で、離反者がぽつぽつ現れて来ます。

有馬晴信とか安徳純俊など。

 

そして離反してどこに行くかと言うと、島津なんですね。

(まるっきりの一匹狼だと、龍造寺にすぐ食われてしまいますから)

 

そこで、隆信は裏切り者たちを叩きに行きますが…これに対し島津が援軍を送りました。

 

すると、これで戦に火が着きます。

これで沖田畷の戦いがスタートです。

 

恐怖の底なし沼

龍造寺3万 VS 島津、有馬連合5千

 

ありゃ?島津系はずいぶん少ないな…。

これで勝てるんだろうか?

(島津は他所に出はらっていて、救援に行けませんでした)

 

まともにやったら勝てませんよね。

そこで秘技「釣り野伏」の番です。

 

最初、島津軍は龍造寺森岳城を攻撃しました。

少ない兵力で。

 

すると、龍造寺に軽く蹴散らされます。

やられた島津後退する姿を見せながら「沖田畷」という泥沼地帯に逃げ込みます

 

泥沼地帯の中には細いあぜ道が通っていて、そこを島津軍が逃げていきます。

 

龍造寺も細い列をつくって、追撃します。

 

そして、龍造寺をじゅうぶん沖田畷に引き込んで待ち構えた島津軍が鉄砲と弓矢の集中放火を浴びせる!

すると、龍造寺の一番隊は大崩れします。

 

これを見た後続の部隊が助けに行くのですが、道は細いし、周りはドロドロのヌマヌマ。

思う様にに前へ進めない!!

助けるどころの騒ぎじゃない。

 

そして「こりゃ、何かおかしいぞ」と思って龍造寺隆信が様子を見て来るように家臣を走らせました。

 

そしたら、何を勘違いしたのかその人は「ガンガン突っ込め〜

と他の武将に指示してまわります。

(意味がワカラナイ…)

 

で、みんな泥沼の中に突入していきます。

 

するとその後は、もうヒドい状態でした。

沼にはまって身動きがとれずにいると、銃と弓矢の雨あられが襲って来る。

屍類類、、、

 

これで、龍造寺軍はどんどん力を削がれ

ついには、隆信本人まで討ち取られる始末。

 

自滅に等しい猛将

戦の当初、龍造寺方の鍋島直茂は「慎重に戦った方がいいですよ」と言ったのですが隆信は「何を言っとるんじゃ、こんなもん軽くやっつけてやるわ」と聞き入れませんでした。

人の親切は素直に聞いときゃいいものを…。

 

豪勇の隆信とクールな直茂。

ガッチリ手を組めば最高のコンビだったんだけどなぁ。

残念…。

 

 

 

「九州統一」しかけたら…秀吉がやって来た!

 

島津家は、強豪の大友と龍造寺を見事やっつけました。

もう、九州では無敵の島津

 

後は、細かい微調整をして九州統一!…の筈だったのです。

ところが…その途中でとんでもない大敵がケンカを売ってきます。

 

豊臣秀吉の登場です

秀吉は1585年に「惣無事令(そうぶじれい)」という平和を呼びかける政令をだします。

 

それは「大名の皆さんは勝手に戦をしちゃいけませんよ」という内容でした。

 

しかも、天皇のお墨付き

だから惣無事令に逆らった人は、ルールに従わぬ無法者だと言うのです。

 

と言っても、実際は勝ち組が自分の都合のいいように制定した法律。

そんなものに島津が従うワケがない。

 

それどころか、島津は九州統一の仕上げ作業の途中。

勝手に閉店にないでくださいよ、秀吉さん。

(「九州平和令」とか言ってるけど、あんたが一番怖いんだよ。。。)

 

しかし、そんな事秀吉の知ったこっちゃない。

秀吉は、惣無事令を受け入れない島津を反逆者として見なします。

 

そして1586年、九州征伐開始

いよいよ秀吉軍が乗り込んできます。

最初は島津も健闘していました。

 

戸次川の戦いでは釣り野伏が炸裂して

長宗我部が率いる四国軍団をコテンパンにやっつけます。

 

でも、そんなものは秀吉にとって物の数ではありません。

 

島津軍2万(多めに数えても)に対し秀吉軍25万

(関ケ原の戦いだってここまで動員してませんよ)

 

緒戦で負けても、次々と替わりの部隊が襲いかかります。

 

これではさすがの島津もお手上げです。

そして、島津義久は頭を丸めて秀吉の軍門に下る事となりました。

 

海外でも「釣り野伏」

その後の島津は大隅、薩摩、日向の南部を所領とし秀吉の命で朝鮮にも出兵しています。

 

もちろん、「釣り野伏」やりましたよ。

泗川の戦い(しせんのたたかい、1598年)では10倍ぐらい大きい敵勢を相手に勝利しました。