島津家久【島津4兄弟】戦術家の4男( 超スパルタ武将!)

島津家久は島津4兄弟の末っ子。

4番目の弟です。

とは言うものの、上3人の兄さん達とはお母さんが違います。

で、そのギャップを埋めるためにも、武芸も学問も気合入れて頑張りました。

ただ、頑張り過ぎのせいか…戦場では鬼の様に怖い

ま、そこが島津っぽいところ?でもあるんですが。

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島津の4男坊

九州の戦国大名島津家は、島津義久の時代にその盛隆を極めます。

 

ご存じの通り、義久には4人の兄弟がいて各自の個性を発揮しつつ力を合わせ島津家を盛り立てていったのでした。

で、今日は島津兄弟の4番目「家久」の紹介です。

 

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側室の子、家久

冒頭にちょっと書きましたが、家久は上の兄ちゃん達と違って側室に子供でした。

 

しかも、みんなより一回りぐらい年下で、長男の義久とは14歳違います。

ここまで年が離れてると、兄弟でじゃれあったり喧嘩なんかナシですね、きっと。

若干距離があった。

 

だから、4兄弟でありつつ「なんかオレ、皆から浮いてない?上3人とチョット違う…」

と感じる家久。

 

で、ある日その事を一番上の兄ちゃん義久に打ち明けたんです。

そうしたら義久は

「馬とか牛は血統が一番大事だけど、オレたちは人間だからね。

 お互いの信頼とか、人徳のほうがよっぽど重要だよ」

と言ってくれました。

 

これに気を良くした家久は、島津兄弟の名に恥じないようにと寸暇を惜しんで武芸や学問に励みます。

 

おかげで家久は武勇と軍略に長けた武将に成長し、数々のミラクルな戦果を収めていくのでした。

(ただ、お勉強はちょっと苦手でしたが…)

 

 

強敵を蹴散らす家久

家久の武功はたっくさんあるんですけど、今回はその中で代表的なやつを2個だけ紹介します。

 

沖田畷の戦い(1584年)

沖田畷の戦いは「肥前の熊」こと龍造寺隆信との戦です。

 

戦国武将は虎とか鬼と呼ばれる人は多いですが、熊は珍しいですね。

ま、それはともかく…。

強いからこそ怖そうな名前を付けられるのですが、龍造寺隆信もそんな強豪武将の一人であります。

 

龍造寺家は衰退していく大友氏を餌にして、勢力を伸ばしていった九州の戦国大名。

そんな凶暴な熊大名と島津家が戦ったのが沖田畷の戦いでした。

 

龍造寺25000の大勢力に対して、家久の率いる島津軍の勢力はわずか3000

これじゃ、籠城戦だってキツイです。

でも、家久は見事に龍造寺の軍を撃破しちゃいました。

 

釣り野伏」という作戦を使って。

 

釣り野伏の戦術とは囮を使って、敵軍を罠に誘い込みカウンターパンチを食らわす作戦。

原理は簡単なんですけど、上手くやらないと簡単に敵は簡単に引っかかってくれません。

細心の注意が必要です。

 

しかも、兵力差が大きすぎる。

さて、上手くいくでしょうか…?

 

家久は、高台から戦況を監視する隆信の目を意識しながら慎重に囮部隊を出撃させ、わざと負けて見せて、沖田畷の泥沼地帯に誘い込みます。

 

すると…隆信はまんまと家久の策にはハマります。

 

敗走する島津の兵を追いかけて、沖田畷の畦道を走る龍造寺軍。

畦道なので自然と部隊が細い行列になります。

 

そして、龍造寺軍がほそーくなったところで、両脇から島津軍が銃弾をバンバン浴びせます。

すると、龍造寺軍は思いっきりパニック状態。

これで25000の大軍は烏合の衆と化しました…。

 

家久は軍略に長けた武将でしたが、さすがに龍蔵寺を相手にして楽勝で勝てるとは思っていませんでした。

なにせ、25000の大軍ですからね。

 

そこで、家久は戦の前にこう言って家臣にハッパをかけます。

 

「俺たちの後ろには海があって、もう逃げ場がない。

敵はもの凄い大軍だから全滅しちゃうかも知れない。

だけど、薩摩武士のプライドに賭けて最期まで勇敢に戦うんだっ!」

 

いや~、無茶苦茶ですねー。

武士のプライドって何?

負けると分かってるなら逃げたいですよ、ふつう。

 

でも、家久はそうじゃなかった。

わざと兵士を追い詰めて、気合を入れさせ、奇跡の大勝利をもぎ取ったのでした。

 

?わざと…?

 

実は、開戦前に家久の元には島津の援軍が到着していました。

しかし、敢えてそれを断って、既にいる兵士たちの集中力を高めたんです。

援軍に甘えて数で勝負するより、精鋭の結束力を固めてこその勝利。

 

普通出来ませんよ、そんな事。

怖いですから。

味方の数は多い方がいいんじゃないかなぁ~、って思いますが…。

 

ちなみに、家久は自分たち陣の前に線を引きました。

そして「ここから後ろに退却した奴は、お仕置きをするぞ」

と決めていたそうです。

 

強引な人ですね…。

 

 

戸次川の戦い(1587年)

龍造寺に勝って九州の覇者となった島津家。

しかし、そんな島津にへんな因縁をふっかけてきたヤツがいました。

豊臣秀吉です。

 

島津との戦い敗れた大友氏は、九州の端っこに追いやられて島津のプレッシャーにペチャンコにされそう。

そこで、秀吉に助けを求めます。

 

「秀吉さん助けてください。島津がいじめるんです」

「おお、そうか。それでは助けてやろう」

 

で、秀吉は「九州征伐」とか言って大軍を送り込んできます。

それは、仙石秀久や長宗我部元親が率いる連合軍。

またもや、大軍で押し寄せてきます。

 

そして、家久はいつものように家臣たちに気合を注入します。

さあ、仙石と長宗我部の大軍がやってくるぞ!みんな生きて帰れると思うなよ。

 死ぬ気で戦うんだっ!!」

 

またかよ~。

これじゃ、勝っても負けても死んじゃうじゃん。

カンベンしてくれ~。

ですよね?フツーなら。

 

でも、これって言える人がちゃんと言うともの凄い説得力があるらしく、他の武将でも時々耳にするセリフなんです。

 

信念が無くて、軽々しく使うと「バッキャロー、ふざけんじゃねー」

なんですが、家久が言うとガツンと士気が上がるのです。

 

そして、島津軍は征伐に来た奴らをコテンパンに叩きのめし九州から追い出してやりました。

 

もちろん、必殺「釣り野伏」も炸裂してます。

 

 

まとめ

島津4兄弟の4男である島津家久。

家久は上3人の兄達に対して、腹違いの子であると言う引け目を感じるます。

しかし、長男の義久の励ましによりコンプレックスをバネに変えていく。

戦では鬼教官のような厳しさがあるが、それは家久流の軍の統率術でもあった。

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