スポンサーリンク
足利義澄(あしかがよしずみ)お飾り将軍
足利義澄は室町11代目の将軍。
義澄は歴代の足利将軍の中で、とりわけ「影の薄い将軍」でした。
何のために将軍をやっているのか分からない人。
クーデター(明応の政変)を切っ掛けに一応、将軍にはなったけれど…自分で企てたわけでもないし、権力は家臣の細川氏にバッチリ握られている。
少しは自分でも権力を握ろうとはしますが、対立して相手をやっつける程のパワーは無し。
そして、人生最後の合戦では「討ち死」では無くて…「病死」。
しかも、お城の中で。
これでも武将なのか???
これが高齢者なら分かるけど、32歳のバリバリ働き盛りですからね。
力が抜けて行くようです。
今回はそんな迫力不足の将軍「足利義澄」についてご紹介します。
スポンサーリンク
足利義澄プロフィール
職業
室町11代目将軍。
24歳位で就任して、32歳まで勤めました。
最期は病死です。
残念。
性格
弱気。
リーダーシップ小。
そして、平和主義。
争い事で大活躍したと言うエピソードはあまり無し。
ふ〜む。
明応の政変
義澄が将軍になる切っ掛けになったクーデター事件。
幕府の家臣が勝手に前の将軍をクビにして、新しい将軍を立てちゃった事件です。
犠牲になったのは10代目の将軍「足利義稙」。
…で、次の将軍になったのが義澄でした。
もろ、御神輿将軍。
もうここまで来ると、将軍 = 裸の大様。
新旧の将軍でドンパチのバトルをやるワケじゃなく、
家臣が勝手に幕府を回してる感じ。
クーデターが終わってから「お〜い、よしずみさ〜ん、将軍の服着といてね〜」
みたいな感じでやっと呼ばれる。
セリフが無いドラマの主役、足利義澄。
かくして、室町幕府は新しい時代を迎えるのでした。
父親
義澄の父さんは堀越公方(幕府の関東支部長)の足利政知(まさとも)さん。
政知は足利義政(→銀閣寺でお馴染み)の弟。
将軍家とはしっかり繋がりのある家系です。
母親
円満院(えんまいんいん)。
詳しい事はよく知らないです…すんません。
茶々丸をいびった(口撃)、というウワサはありますが不確かです。
とりあえずはセレブ家系の人ですね。
京都の名門「日野家」からお嫁に来ました。
茶々丸アニキを討伐する!
義澄の数少ない「貴重な」お手柄エピソードです。
義澄には異母兄弟の「茶々丸」っていう兄さんがいました。
で、この茶々丸兄さん、すっごい凶暴。
親父に牢屋へ、ぶち込まれるくらいに。
そしてある日、茶々丸は牢屋を脱走して…義澄の実の兄さんとお母さんを殺して…
(本当はもっと殺しています…、地獄絵図のイメージですよ!)
強引に自分で堀越公方になってしまった!
これは放っておくワケにはいかない。
世の中的にも危険ですよ。
そこで、義澄は茶々丸を討伐する兵を挙げます。
そして見事、成敗にするに至る。
義澄よくやった!!
できれば、義澄本人が陣頭に立つともっとカッコいいんだけれど、そこまでの事はしません。
危険な作業は他の人にやって貰いました。
ちなみに、実際に敵陣に乗り込んで行ったのはあの「北条早雲」の率いる部隊。
やっぱ、戦国武将はこうでなくっちゃ。
最期の戦
義澄の最期の合戦となったのは1511年の「船岡山合戦」です。
1507年に前将軍の足利義稙が京都に攻め入って来て
それに対抗しきれず、義澄は将軍職を追われます。
しかし、このままでは終わりません。
義澄だって反撃しました。
押しつ押されずの合戦を重ね、
いよいよ決戦となる「船岡山の合戦」に突入!
と思いきや…義澄は合戦を直前にして茎岡山城で病死。
(ガクッ!)
戦ですからね、ドタキャンは出来ません。
「ウチの大将死んじゃったから、戦いはちょっと待ってくれませんか?」と言われても
「はい、分かりました」と、なるワケがない。
それにいくらお飾りの将軍と言えども、生きていなければ担いでいる意味がない。
大将が死んでたら、戦っている家臣達も「なんのこっちゃ?」
って、なりますよね。
そして、戦い破れて義澄派は足利義稙に政権を奪われました。
家臣の皆さん達もさぞガッカリした事でしょう。
きっと寒い空気に包まれて、空しい気分を味わったに違いありません。
まとめ
明応の政変で将軍に引っぱり出された、堀越公方の次男坊。
それなりに、将軍にふさわしい血筋ではあるんですが本人のモチベーションが今ひとつ。
最期は敵将と激突か?と思いきや、病欠で本戦不出場。
居るのか居ないのかよく分からない将軍、足利義澄。
最期はフェードアウトするする様に人生を閉じます。
将軍職という重たい職務を担いながら、その存在感は空気の様。
ま、生身の人間ですからその時々の苦労や努力はあったと思いますが…それにしても、いまいち印象に残らない人でした。