名将か凡将か意見の分かれる「仙石秀久」
取り扱い注意の危険人物。
秀久は、若き日に織田信長へ仕えたのを切っ掛けにして、波乱万丈の人生が始まります。
戦力はメッチャあるけど、島津にボロ負けして戦場から勝手に逃走したり…
領地を没収されたと思ったら、大名として大復活したり…
浮き沈みの激しい戦国時代の中、秀久はそれ以上に破天荒に生きた猛将でした。
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信長に拾われて大出世
仙石秀久は1552年生まれで、美濃国出身の武将。
美濃だから最初は斉藤龍興に仕えていたんですが、龍興は信長にやられちゃいましたよね?
そこで、今度は織田家に入って来ました。
仙石秀久は、若い頃は颯爽としたカッコいいイケメンで、それが信長の目に留まり、織田家に入る切っ掛けをつかみます。(肖像画は宇宙人かサルぐらいにしか見えないけど…)
織田家臣団の中で、久秀は秀吉の下のに配属されました。
すると…これが、結構使えるヤツだったのです。
初陣で、いきなり敵将のクビは取って来るような超勇敢武将。
当時、秀吉の下にいた足軽達は、ほとんどが…百姓か良くても村の番長みたいな人ばっかり。
秀久みたいに武家の生まれで、ちゃんと戦闘の出来る家臣なんていませんでした。
秀吉は「こりゃ良い人がきてくれたぞ!」と喜びます。
秀久は秀吉の期待に応え、ガンガン働いてくれました。
中国攻略、三木合戦、山崎の戦い等で、次々と武功を立てていきます。
そしてついには、淡路平定を評価されて5万石の大名!になるまで上り詰めます。
(大名になれるってマジ凄い。一握りの人しかなれないですから)
出世街道を爆進した、仙石秀久。
そうです…ここまでは良かった。
全く文句の付けようがナイ。
しかしこの後、とんでもないヘマをやらかして、人生のどん底へ…。
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戸次川から高野山への転落
5万石の大名に上り詰めた(上には上がいますが…)秀久は、黒田官兵衛とともに四国征伐(対長宗我部)でも大活躍。
そして、秀吉から讃岐国の半分を貰って高松城の主となりました。
しかし、それは…秀久伝説崩壊の序章でもあったのです。
讃岐国を貰った久秀は、その翌年に秀吉から九州征伐を命じられました。
そこで秀久は、九州征伐軍の大将を仰せつかります。
でも、実は征伐軍の内訳がちょっと微妙だったのです…。
と言うのは、九州征伐は豊臣軍、大友軍、長宗我部軍の3部勢力の合同軍。
しかし、この3つが非常にまとまりが悪いんです。
長宗我部 → 豊臣が嫌い
大友 → ヤル気ない
豊臣 → 大友を「田舎者」だと言ってコケにする。
しかも、今回の対戦相手は九州の強烈大名島津家です。
さらに、秀久は島津をナメてかかっている。
で、どうなったか?…大体想像が付きますよね。
ボッコボコにやられちゃいましたよ、久秀は。
島津の必殺「釣り野伏」にまんまと引っかかって。(戸次川の戦い・1587年)
戦が始まって島津の先鋒を叩いた秀久は、逃げる島津にトドメを刺そうと追いかけました。
しかし、それは島津の仕掛けたワナだったのです。
夢中になって島津を追撃すると…そこは敵に囲まれた地獄の包囲網。
島津の囮につられて深追いしたら、手痛い袋叩きに遭いました。
もう、ズタズタのボコボコに…
仙石軍は壊滅状態に陥ります。
(しかも、まとまりの悪いチームなので大将がやられても「しーらんぺっ」です)
すると、大将の秀久は…身の回りの兵を連れて、勝手に讃岐国に逃げちゃった!
職場放棄です。
あり得ないです。
残された兵はどうすんだよ?誰が秀吉様に報告するんだよ?
九州の地はその後、豊臣の勢力によって制圧されました。
そして、秀久は秀吉に合わせる顔がナイ。
いや、むしろ秀吉が秀久の顔なんか見たくない。
カンカンに怒った秀吉は、秀久の領地を取り上げて高野山に追放してやりました。
(冬の高野山は耐えられないほど寒いですよ~)
こうして出世街道を爆進した秀久は、全てを失い人生のどん底に転げ落ちていきます。
徳川家康が救いの手を…
それから4年の歳月が経ち、秀吉は北条を潰すための小田原合戦を開始します。
すると、徳川家康が高野山にいる秀久に声を掛けてくれました。
「小田原合戦に参加しなよ。あんたの居場所はオレが作ってあげるからさ」と。
おお、これは有り難い。
家康さんに誘い出してもらって、豊臣側として参陣すれば、もしかしたら…秀吉様の機嫌の直るかも知れない。
と、言うワケで秀久は昔の仲間を引き連れて、小田原にやって来ました。
で、ヤルからには目だった武功を立てて秀吉に認めてもらいたい。
そこでワザと敵を引き付けるために、陣羽織に鈴をいっぱいくっつけて戦いましたよ。
先頭に立って。
秀久は「自分で指揮をしなければ」メッチャ強いので、もの凄い活躍をみせました。
秀吉はこれを機に秀久を許し、信濃に5万石の領地を与えてやります。
フーッ、助かった。
(しかし、まぁよく一発で戻って来れましたね、スゴイ)
その後、豊臣と徳川は関ヶ原で対決するのですが、仙石秀久としてはもちろん、徳川の東軍につくワケです。
小田原では、さんざん世話になっていますからね。
ちなみに、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠(2代目将軍)が戦に遅刻して、家康にもの凄い怒られました。
しかし、これを大いにかばってくれたのが仙石秀久であって、秀忠は恩に着るわけです。
秀久と秀忠は性格的に馬が合うらしく、以来二人はマブダチになった…という話があります。
三国一の臆病者
仙石秀久って、人のよってかなり好き嫌いの分かれる武将です。
とりあえず、徳川秀忠は秀久の親友ですね。
また、秀忠のオヤジさんの家康も秀久を嫌いじゃ無いでしょうし…
秀吉だって、一度は秀久をクビにしたけれど、小田原で戻って来た時は嬉しかったんじゃないでしょうか?
信長なんか、秀久が仕官する時にいきなりボーナスあげてますね。
その一方で、秀久の事を快く思わない人もいます…いっぱい。
ルイスフロイスは秀久の事をドロボーとか、人で無しとか、レベルの低い人間などと言ってます。
戸次川の戦いでの情けない負けっぷりを見た島津の武将は、「三国一の臆病者」とこき下ろしています。
また、秀久は九州に来ては地元の武将を小バカにするし…。
(こりゃ、嫌われれる。性格悪いよ~)
あと、関ヶ原の合戦で身に着けていた陣羽織。
あの、鈴をいっぱいつけてチャラチャラ鳴らしてたヤツ。
あれだって、普通の感覚からすると「コイツ大丈夫か?チョット変だぞ」
みたいに思われて、ヒンシュクを買っていたらしい。
(仙石秀久ってヒーローなんだか、悪役なんだか良く分からない人ですね)
まとめ
美濃国に生まれた仙石秀久は、斉藤家から織田家へと移籍し秀吉と出会いました。
秀久は武功をガンガン重ね、ついには讃岐国の半分を貰うほどに出世します。
ところが九州征伐で、ヘマをしでかし高野山に追放。
しかし、その後家康のコネで奇跡の復活を遂げます。
浮き沈みの激しい人生、好き嫌いの分かれる性格、破天荒な戦いぶり。
戦国時代の奇人変人ですね。