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快川紹喜というお坊さん
快川紹喜(かいかわじょうき)とは、あの武田信玄に禅の教えを授けたお坊さん。
有名な辞世に「心頭滅却すれば火もまた涼し」
というのがあります。
本当は別のお坊さんの言葉らしいんですけど、そんな細かい事どうでもいいです。
紹喜はそれを言える位の人生を送ってきて、実際に炎で焼かれています。
紹喜にこそ、この言葉が似合う人物。
そして信玄は、そんな快川紹喜先生を心から尊敬していました。
信玄の先生
山梨県の塩山市に恵林寺(えりんじ)というお寺があります。
恵林寺はすっごい歴史(平安時代~)のあるお寺。
武田信玄は、この恵林寺に京都から頭の良いお坊さんを呼んで学問や軍事、禅などを勉強していました。
恵林寺にはいろんなお坊さんがやって来ますが、その中でも快川喜紹は長年恵林寺に滞在し信玄にいろんな事を教えてくれました。
っていうか、喜紹も居心地が良かったんでしょうね。
信玄と仲がよかったみたいだし…。
プライベートで一緒に、お花見なんかもやってます。
(信玄の葬式も喜紹が導師を務めています)
さらに、信玄からはお金もいっぱい寄付してもらっていますしね。
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快川先生には、やっぱり敵わない
いつでも堂々として、威厳を漂わせる快川紹喜。
かつて信玄が若かったころ、快川和尚にこんなイタズラをしたことがありました。
「ウチの先生はいつでも落ち着きを払っているけど、ビビった時にはどんな顔すんだろう?」
と思い、喜紹の顔スレスレの所に、日本刀を振り下ろしたんです。
すると紹喜は、、、ぜ~んぜん平気っ面。
何とも思っていない様子。
「ありゃ、この人全然動じないぞ?どうなってるんだ?」
紹喜には、信玄がアホなちょっかいを出して来たのは分かっていました。
でも、別に怒るワケでもなく、ビビるワケでのもなくごくフツーにしてたんです。
ただ、ちょうどいいタイミングだったので信玄に説教だけはしてやりました。
「禅の修行をしている者は、心はいつでも平常心なんで刀を振られても一々びくびくしないんです。ま、それはさておき、、、
大名の総大将やってる様な人が、他人を怖がらせるために刃物を使うってのはダメですよ。
程度の低いガキじゃないんだから。
自分の度量の小さいのを、刃物の恐怖で埋め合わせようとする発想では情けないです。
大将を張る人は、刀が要らないくらいの人間力がないとね…」
これを聞いた信玄は、自分の浅はかさを恥ずかしく思いました。
それ以降、信玄が戦で刀を抜くことはなかったと言います。
(ほうとうを切る時は刀を抜いたかもしれません。伝家の宝刀で…?)
信長に焼かれて「火もまた涼し」
その後、武田信玄が病気で死んで、、勝頼は戦で敗れ、、武田家は滅亡。
でも、快川紹喜はそのまま甲斐国の恵林寺に残っていました。
そんなある日、信長に戦で負けた六角承禎ら3人の武将が恵林寺に逃げ込んできました。
そこで、信長は3人を引き渡すよう紹喜にプレッシャーをかけて来ます。
「紹喜さん、敵将の身柄を返して下さい」
「いや、絶対ムリです。返しません」
「言う事聞かないと、お寺に乗り込みますよっ!」
「それはどうかなぁ?」
「分かった。それじゃお寺を占拠します」
「じゃあ、勝手にすればいいです。でも、武将達はもうどこかに逃げちゃってますけどね…」
「なんだって~っ!?」
紹喜はいたって堂々としているのですが、信長は思いっきりブチ切れ状態。
そして、恵林寺のお坊さん150人余りを
お寺の上の方にぎゅうぎゅう詰め込んで、火を着けた!
火炎地獄の恵林寺。
(もちろん、紹喜もこの中に入っています)
燃え盛る炎の中、快川紹喜はこう唱えたと言います。
「安禅は必ずしも山水を須いず(もちいず)心頭滅却すれば火も自ずから涼し」
(異説もありますが…)
凡人には、この時の紹喜の心を察する事は出来ません。
炎に焼かれたら、普通に熱いと思いますから。
そして、もし信玄がこの様子を見ていたら「信長のやつ、まだまだ度量がねーなー」
と嘆いたかも知れませんね。
まとめ
「心頭滅却すれば火もまた涼し」の辞世で知られる快川紹喜。
武田信玄の心の師匠として、長年恵林寺に住しました。
刃物にも炎にも屈しない精神は、人々の尊敬を集める一方
信長による襲撃を食らいます。
しかし、その生き様は俗人には想像しがたいほど高邁なものでした。
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