今回は、個性派武将「細川幽斎」の紹介です。
細川幽斎は、信長や政宗や信玄や謙信なんかと比べると、知名度はガク―ンと落ちますよね。
でも、死ぬほど頭の良い武将だったので、外様の大名でありながら、秀吉や家康の頼れるアドバイザーとしても活躍しました。
大変な博学を持つ人なので、武将にしておくのがモッタイナイくらいです。
ちなみに、細川幽斎の息子の忠興は九州小倉藩の藩主で…
忠興の奥さんは細川ガラシャで…
そのご子孫が、元総理大臣の細川護熙です。
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細川幽斎は足利の血筋
細川幽斎は丹後(京都)に11万石の所領を持つ大名。
名前は細川ですが、室町管領家の細川家とはちょっと違うんですね。
同じ細川でも、幽斎の細川は分家の方。
ところで…幽斎って足利将軍家の血筋の人なんです。
血筋は将軍なんですが、家柄は細川。
(なんじゃそりゃ?)
少しややこしいのですが、さくっと説明しますので聞いてください。
12代将軍足利義晴+義晴のガールフレンド智慶院⇒ご懐妊(中身は幽斎)
ご懐妊智慶院+三淵晴員⇒結婚⇒萬吉誕生(後の幽斎です)
萬吉⇒細川元常の養子になる⇒その後、細川藤孝と名乗る(=細川幽斎)
だから、細川幽斎は足利義晴の息子であり…足利将軍義輝(13代)、義昭(15代)とは異母兄弟になります。
兄弟なんで、将軍家に対する働きかけはかなり熱心。
他人じゃないですから。
幽斎は、風前の灯となった足利家を一生懸命サポートしました。
足利義昭が将軍になれたのは、幽斎のおかげと言ってもいいでしょう。
しかし、義昭は幽斎の忠告も聞かず信長に逆らってしまい、京都から追放されちゃいます。
そこで幽斎は、足利を諦めて信長に従う様になりました。
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和歌、武芸、茶道、囲碁、料理…何でもOK!
細川幽斎は戦国武将なんで、もちろん数々の戦にも出撃しています。
しかし、幽斎のポテンシャルはそんなもんじゃない。
和歌、蹴鞠、茶道などの文芸を極め、剣術も強いし、囲碁もやるし、料理もできる。
どれもこれも「趣味程度」のレベルじゃなくて、一流の域にまで達しています。
猿楽だってやるし、水泳もハイレベルにマスターしてます。
(他にも何かできるかも知れません…)
恐ろしく器用なんです。
何なんでしょう?この人は( ^ω^)・・・宇宙人ですか?
格闘家で、大学教授で、囲碁名人で、料理の鉄人で、スイミングの先生までやってるようなもんです。
おかしいですよ、そんなに出来ワケないです。
普通の人は、一つ出来るだけで精一杯。
時々、そんな超マルチな人って見かけますがそういう人って大概、知能指数がバカみたいに高い。
頭の構造が違うんでしょうね、きっと。
幽斎も、おそらくそういうタイプの人間だと思います。
光秀と幽斎
足利義昭のもとを離れた幽斎は、信長に仕え近畿各地を転戦。
結構活躍していますよ。
単なる秀才じゃないんです。
で、信長の勧めで幽斎は、明智光秀の娘(ガラシャ)を息子(忠興)の嫁にもらいました。
つまり、幽斎と光秀は親戚関係になります。
しかし、1582年に本能寺の変が勃発。
織田VS明智。
なんなんだよ~、光秀ヘンな事すんじゃねーよ。
板挟みになっちゃうじゃんかよー。
織田の家臣でありながら、光秀とは親戚。
光秀は幽斎に「こっちに来い」誘います。
当然です。
ちょっとでも仲間を増やしたいですから。
でも、それに乗ると逆賊ですよね。
それに、幽斎は別に天下を取りたいワケじゃないんです。
天下を取るなら、それに相応しい人がなればよろしい。
光秀が次の天下人に相応しいなら、もちろん応援します。
相応しいならね…。
応援したい気持ちはあるんですよ。
そして幽斎は、光秀のお誘いを断りました。
「光秀じゃ無理だ。天下人ってガラじゃないもの」
それは、光秀が無能だという意味じゃなくて天下人に合ってるか、合ってないかの問題。
幽斎は武将オンリーの人生ではないので、勝ち負けや上下をあまり気にしないタイプ。
それよりも合ってるか間違ってるか、もしくは丁度よく収まるか?を気にする人。
人と競って、上に行きたい光秀とは考え方が違うんです。
親戚だから、光秀を応援したい気持ちはあるんだけど、人間には向き不向きがある。
信長を討っても光秀には天下を取れないだろう…。
天下を取れそうな人は見りゃ分かりますよ、顔に描いてありますから。
それはそうと…明智光秀が本能寺の変なんてやらかすもんだから、幽斎も武将業界に居づらくなってしまいました。
裏切り者の一味だと思われても、いけないですからね。
そう考えた幽斎は武将のレースから降り、家督を譲って隠居しました。
ちなみに「幽斎」とは隠居後の名前であります。
その前は、細川藤孝(ふじたか)の名前で出ていました。
でも、藤孝よりも幽斎の方が有名ですよね?
それはつまり、、隠居後の方が目だった活躍をしていたと言う事なんです。
秀吉も家康も幽斎頼み
本能寺の変以降、第一線を退いた幽斎。
そんな幽斎を待ち受けていたのが秀吉です。
秀吉は百姓の出身なので、京のしきたりとか、朝廷との付き合いとか歌会の事とかよく分からないんです。
字もあんまり読むのが得意じゃないし…。
天下を取らんとする者は、戦だけが仕事じゃない。
かといって、そのたびに専門家を呼んで教えてもらうのも面倒くさいし。
しかし、幽斎一人いれば何でも分かる。
「幽斎さん、あんた現役辞めたんだよね?じゃあ、ウチにきてコンサルタントしてくれない?」
みたいな感じで、秀吉の相談相手としてだいぶ頼りにされました。
軍事、文化、芸能、内政、外交…なんでも御座れの相談役です。
そして、時を経て家康の時代がやって来ます。
もちろん、家康にも呼ばれましたよ。
家康だって文武両道、多趣味なマルチ人間なんですが幽斎には敵わないでしょう。
いや、そんな家康だからこそ、その上を行く超マルチ人間が必要だった。
自分よりレベルの低い人だったら、相談してもつまらないですからね。
江戸幕府を設立するには、幽斎の知識が相当役に立ったようです。
幽斎は歴代の天下人を影からガッツリ支えた、知の巨人でした。
牛の話
幽斎伝説に一つに牛退治の話があります。
ある日、京の町に暴れ牛が乱入してきて辺りは騒然となった。
そこへ幽斎がやって来て、牛の角をつかんでゴロンと横に倒したと言う話。
たぶん酪農関係者だったら「そんなの絶対にあり得ない」と思うでしょう。
牛ってデカいですから。
しかも、暴れると超怖い。
仮に、牛の角をつかんでも振り回されるのが関の山。
いくら幽斎でもそいつは無理だと思うんですが、古文書の中には「牛ゴロン」の記述があるらしいんですね。
調べた人も「まさか~」と思ったのですが、「幽斎がやった」って書いてあるそうです。
武術の達人だとできるのかなぁ?
加藤清正が虎退治をする伝説なんかありますが、あれは鉄砲を使ってチームワークで虎狩りしてますので、幽斎の腕力には遠く及びません。
しかも、虎より牛のほうがずっとデカいし…。