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薬屋の小倅から武将へ
小西行長の父さんは薬商人で、昔から秀吉との付き合いがありその後、秀吉の家臣となりました。
と言っても、武将出身ではないので兵糧係とか軍備品の運搬、手配などが主な仕事。
行長お母さんは、大阪で秀吉の奥さん(ねね)に仕えています。
小西家は武将の家系ではなかったのですが、秀吉とは縁があったのですね。
(行長の両親もクリスチャンです)
で、行長本人は備前国(岡山県)の商家の家に養子に入ります。
(次男坊だったため)
ところが、仕事の用事で宇喜多家に何度も出入りしていると、すっかり直家に気に入られてしまい宇喜多の家臣として仕える様になりました。
で、さらに…。
織田勢が中国に攻め込んで来た時、行長が宇喜多家の使いとして織田方にやって来ると今度は秀吉に気に入られて、今度は秀吉の家臣としてスカウトされます。
(よっぽど感じのいい青年だったのでしょうね)
かくして、小西行長は織田方の家臣として200石を与えられる様になりました。
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豊臣の姓を賜る
その後、行長は商人の出身としては珍しくガンガン出世をしていきます。
(武家の生まれでも簡単には出世しません)
秀吉の指揮下で水軍を担当し室津、小豆島、塩飽諸島(海系の所領です)など2万石の所領を与えられます。
さらに、「豊臣」の姓を名乗ることを許されてるくらいですから、、もう特別扱いですね。
極めつけは、肥後一揆を鎮圧したことで肥後の南半分ををもらい24万石の大名に駆け上がります。
使いっ走りからスタートして、ここまで出世するなんて…まさに戦国ドリーム。
相当いい仕事をしていたんでしょうね。
高山右近追放 ショック…
小西行長は熱心なキリシタン大名。
そんなキリシタン行長に大変ショッキングな出来事が起こります。
高山右近の国外追放です。
右近といえば日本のキリシタン達の憧れの大スター。
人間的にすっごい尊敬されていました。
(行長は右近の導きで洗礼をうけています)
右近はバテレン追放令のあおりを食って、国外に追放されます。
右近はバテレン(外国人宣教師)ではありませんが、その辺のバテレンなんかより
ずっと影響力があったので、右近を締め出すことで見せしめ効果が出るんですね。
キリシタン行長としては、当然納得できませんから死を覚悟で右近を匿ったりしました。
(結局はフィリピンに追放されてしまいますが…)
ところが右近を追い出した後、キリシタンへの締め付けは意外と緩くなり…行長は、キリシタンの多い天草の地域を収める事を任されました。
加藤清正とは仲が悪かった…
小西行長はは肥後国(熊本県)の南半分を所領とし、加藤清正は北半を持っていた。
つまり、お隣同士。
それで、この2人は…大変仲が悪い。
北と南の境目を争い合ったり、朝鮮の役では軍議で反発したり、武功を競い合ったりしてました。
(ライバル意識なのか?)
行長がキリシタンで清正が日蓮宗だからって言うのも多少はあるんでしょうけど、まぁ性格の反りが合わないんだと思います。
非常に人間的な理由…。
(清正が性格的に難があるんじゃ無いです。地元じゃ名君で通ってますから)
いいんです、別に中悪くても。
人間ですから。
勝手にやってて下さい。
とは言うものの…。
この二人の関係性は、秀吉の死後にも持ち越され
関ヶ原では敵味方になって戦う形になってしまいました。
清正はバリバリの武断派で、
行長はそれに対抗するするために石田三成たちの文治派の仲間に入ります。
(「三成派」ではありません…ちなみに)
最期の祈り
1600年、8月1日。
ついに関ヶ原合戦の火蓋が切って落とされました。
小西行長は石田三成らと共に西軍の主力メンバーとして戦います。
最初は西軍も勢いがあってだいぶ善戦していたのですが…結果は皆さんご存知ですよね?
じわじわと東軍に押される戦況の中、西軍では改めて軍議が開かれました。
すると、三成は陣を退いて戦う事を主張します。
これに対し、行長たち(島津家とか)は
「ここで下がったら兵士たちのやる気が失せてしまう。
それよりも夜襲を仕掛けて、戦の流れを変えた方が良い」
と言う意見を出します。
しかし、三成は
「夜襲は小さい戦で使う戦法なので、関ヶ原みたいな大戦ではそんなセコイ手は使わない」
と言う始末。
何じゃそれ?
エラソーなこと言っといて、顔が引きつってるじゃないか!
行長は家臣の者の言いました。
「三成があんなに弱っちいとは思わなかったよ。
これで負けたら犬死にと一緒じゃないか。悔しい…」
関ヶ原の戦に敗れた行長は、伊吹山(滋賀県かな?)の山中に逃げ込みます。
しかし、4日が経ち山から降りてきます。
行長はキリシタンなので、自害が出来ないんです。
そして、行長は地元の村人にこう言いました。
「私を、徳川家康の所に突き出してください。
そうすれば、あなたは褒美がもらえますよ…」と。
その人は褒美目的では無かったのですが、行長の出頭の手伝いをしてくれました。
さて、1600年10月1日。
小西行長は石田三成、安国寺恵瓊らと共に京都六条河原の処刑場に連行されました。
行長が首を刎ねられる直前、お坊さんが念仏を唱えてくれようとします。
しかし、行長は「わたしはキリシタンなので、結構です。心遣いありがとう…」と断ります。
そして、キリシタンの神様に最期の祈りを捧げました。