今回は、鳥居強右衛門(すねえもん)のお話。
強右衛門は、極太の忠義を貫いた三河の武将。
長篠城でのラストシーンがめっちゃカッコイイ!
男っぷりの良さは、武田勝頼の100倍上です。
家康の家臣に鳥居元忠という忠義な漢がいましたが、強右衛門だって負けてませんよ。
(※強右衛門と元忠は親戚じゃないです)
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長篠の戦 1575年
信玄の亡き後、武田家と織田家+徳川家との関係はさらに、対立を深めます。
武田としては、織田+徳川をぶっ飛ばして、京都までの道のりを確保したい。
織田+徳川としてはは、それをヤラれたら致命傷になりますので、何としても武田の侵攻を止めねばなりません。
そこでやって来ました、長篠の戦い(1575年)。
「信長だろうが家康だろうが、まとめて片付けてやるぜ!」
と息巻く、武田勝頼。
勝頼は、徳川に奪われた長篠城を取り返しにかかります。
しかも、長篠城を守るのは…武田を裏切って徳川に入った奥平貞正。
これは、絶対に許さん。
勝頼は、人質にしていた貞正の奥さんと弟を惨殺しました。
(そこまでする必要あるか?)
対する徳川は、武田側に寝返った大賀弥四郎の奥さんと子供を竹のノコギリでギーコ、、、
(なんと残酷な…)
お互いに感情的になっています…
そんな、最悪の空気の中で攻城戦が始まりました。
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忠義の男、強右衛門の登場
武田軍は長篠城を包囲し、ガンガン攻め込みます。
しかし、なかなか城は落ちない。
それもそのはず、長篠城は武田からの攻撃に耐える為に、防御力をパワーアップしてあったのです。
ただ、守るのはいいけど…あまりに長引けば兵糧が持たない。
このまま行ったら、あと数日での落城は免れない ((((;゚Д゚))))
ピンチの長篠城。
救援軍、はやく来ーい!!
しかし、徳川だけでは武田に勝つのは無理なので、家康は必死になって織田に協力を要請。
家康は「援軍に来ないと、オレ武田に付きますよ」と、まで言って。
事態は緊迫しています。
だけど、反応が遅い…
もう、じれったいなっ!早く!早くっ!
このままじゃ、死んじまうよーっ。
そして、待ち切れない長篠城から救援を催促する伝令兵が放たれました。
それが「鳥居強右衛門」です。 (←すねえもん)
危険なミッション
戦場の伝令って、メッチャ危険な仕事なんです。
敵方に捕まると殺されるし、伝令の内容を吐かないと拷問されるし、まともなルートじゃ行けないし、もちろん城の周りは包囲網が敷いてある。
そんな危ない役を買って出たのが、鳥居強右衛門。
命がけのミッションです。
強右衛門は、夜の闇に紛れて武田の監視をくぐり抜け、山を登って、川を泳いで、家康のいる岡崎城に向かいます。
強右衛門は1日かけて岡崎に到着し、長篠城の危機を伝えました。
すると、その日の内に信長が3万の兵を率いて岡崎にやって来る…と聞きます。
「よっしゃ、これならギリギリ間に合うかも知れない!
でも、一秒でも早く伝えてやらないと仲間たちの心が折れてしまう…
すぐに、長篠城に戻らねば」
強右衛門は、岡崎からとんぼ返りで長篠城に向かいます。
そして、雁峯山に登って「援軍が来るぞー!」と言う意味の狼煙を上げました。
長篠城を守る兵士たちは、これを見てムチャクチャ励まされた事でしょう…
良かったね!強右衛門。
ご苦労様でした。
後は、山の中に隠れて、援軍が到着するのを待ってて下さいね。
磔刑を覚悟する
ところが…
強右衛門は、長篠城に戻ろうとしてしまうんです。
(気持ちは分かります…)
でも、武田軍だって狼煙には気が付いているワケですから「何か動きがあるぞ」
って警戒を強めます。
すると、長篠城周辺で怪しい人影が…
「だれだ、おまえ?知らない顔だな!逃げるなコラッ」
強右衛門は武田軍に捕縛されました。
そして、勝頼の前に連行されます。
(ああ、やっちまった)
覚悟を決めた強右衛門は、事実をありのままの白状します。
(お役目は終わっているので、しゃべってもOKですから)
すると勝頼は、強右衛門にこう持ち掛けました。
「あんた、俺と取引しないか?簡単な事さ。
これから長篠城の前に行って『援軍は来ないから、みんな降参しろよー』
って、言ってくれるだけで良いんだ。
そうしたら、もちろん命は助けてあげるし、ボーナスはあげるし、武田家臣として雇ってあげるからさ…
どうだい、やってみないか?」
これを聞いた強右衛門は、なんと・・・OKしてしまいます。
(裏切ったか?)
そして、長篠城の門の前に行き、大声で叫びました。
「おーい!みんな聞いてるかー?
あと3日で信長の援軍が来るから、それまで負けんなよー」
「ぬおー!何たる、事をっ!!!」
逆を突かれた勝頼は、カンカンになって怒ります。
強右衛門は即刻、磔(はりつけ)。
しかし、強右衛門のメッセージを受けた長篠城の兵士たちは、一気に士気を高め、援軍の到着まで持ちこたえる事が出来ました。
(武田軍の武将の中には、強右衛門の勇気を讃え「敵ながら天晴れ」と感服した者もいたそうです…)
受け継がれる「強右衛門」
その後、強右衛門の息子(信商)は強右衛門オヤジの武功が評価され、100石(年収800万)を与えられ二代目強右衛門を名乗りました。
(信商は後に、武功を上げて更に200石へアップしてます)
そして、強右衛門の家系は代々奥平家に仕え、現在でも続いているそうです。