一瞬の内にして、この世から姿を消した戦国大名「内ヶ島氏」(うちがしまし)。
その名を知っている人は…かなりのマニアです YO!
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内ヶ島氏理、最期の当主
内ヶ島氏は室町時代の中期に、岐阜県白川に移り住んだ一族。
白川郷の白川です。
あの豪雪地帯の白川郷。
元々は、将軍のおそば近くで働いていた武将なんですが、足利義政(銀閣寺の)に頼まれて、白川の地を治めるようになったのです。
(左遷なのか栄転なのかワカラナイですけど…)
それ以来内ヶ島氏は、5代に渡って白川で大名をやっていました。
で、その最後の当主が内ヶ島氏里(うじさと)。
氏里の代で内ヶ島氏は滅亡しました。
なんで…?
それは、簡単。
生き埋めになったからです。
生き埋め?
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天正地震1586年
1586年11月29日、内ヶ島氏の居城である帰雲城(かえりくもじょう)
には大勢の人が集まっていました。
内ヶ島氏の懸案の問題であった、金森氏との和平交渉の成立をお祝いをするために
家臣とか家族とか、、皆で集まっていたんです。
(あ~、めでたいめでたい、これでホッとしたねーって)
そんな宴たけなわ(たぶん、、)のところ、ゴゴゴゴ~って山が鳴り出して大地震が襲って来ました。
帰雲城の裏側には、帰雲山がそびえています。
山は振動によって切り崩され、崩れ落ちた土石木が帰雲城に負い被さってきました。
天正地震は地震の規模はM8と言われていますから、当たり所が悪いと
山の1つや2つは簡単に崩れてしまいます。
当時の災害記録を見ると、地震の中心地はちょうど岐阜県の辺り。
きっと、まともに食らってしまったんでしょうね…。
山からの土砂崩れは、一気に帰雲城を飲み込みます。
こうなると、避難訓練もへったくれもありません。
当主の内ヶ島氏理はもちろん、内ヶ島の家族、家臣も全て生き埋め。
唯一、氏理の弟だけは他所のお寺にいたので助かりましたが
一人だけでは、大名家の運営は出来ません。
兄弟も家臣も財産も、すべて土砂の下ですから。
そしてここに、戦国大名内ヶ島氏の滅亡が確定します。
内ヶ島氏の埋蔵金伝説
内ヶ島氏は白川郷の地域を治めるために、将軍家から使わされてやって来ました。
しかし、本音はそれだけでなく金鉱の開発という役目も担っていました。
でも金鉱って掘ってみないとワカラナイ。
かといって、人手に渡ってしまうのも惜しい。
そこで、とりあえず誰か白川の地域を押さといてくれないかなぁ…というワケでやって来たのが内ヶ島氏。
畑や田んぼの収入は内ヶ島のモノですし、それだけでも大きな権限です。
それだけ…でも悪くは無いんです。
でも「金鉱があるかもよ?」って聞けば当然、堀っ繰り返しみますよ…。
そしたら、、、金が取れちゃったんですね!
で、取れた金を「将軍様ぁ~、金が取れましたよ~」
って素直に言うヤツいるかい?
(いませんよね?たぶん…)
普通はだまってます。
そして、コッソリ貯金します。
(幕府にバレるまで続けます)
実際それが、内ヶ島の戦国大名としての活力源となりました。
しかし、それも大地震を食らって元の木阿弥。
でも、人間は生き埋めにされると死んじゃいますが、黄金は関係ないですよね?
土に埋もれても腐らないですから。
と言う事は、帰雲城にガッツリ貯め込んだ金がどこかにあるはず!
絶対にどこかにあるんです!
今でも、白川郷には内ヶ島氏の埋蔵金伝説が語り継がれています。
埋まっているからこそ、どこかに必ずあるんです。
絶対にあります。
なぜならそれは、黄金の塊を掘り返してウハウハになったヤツが一人もいないからです。
(ああ、やっぱりムリなのね…)