日本初上陸のキリスト教宣教師。
皆さんご存知のフランシスコザビエル。
はるばる、遠く離れたスペインからやって来ました。
ザビエルは、やる気満々で日本での布教活動に邁進したんですが…
戦国時代の荒波にもまれて、意外と大変な思いをしましたんですね。
仏教のお坊さんにはヘンな目でみられるし、天皇には門前払いを食らうし・・
今回は、そんなザビエルの苦労話や日本での足取りを追ってみます。
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ザビエル来日の理由は?
日本人「ヤジロウ」との出会い
ザビエルはスペイン出身のキリスト教宣教師。
フランスの大学で哲学を学び、そこでイニゴという友達と出会い宣教師への道を目指します。
そして、他5名のキリスト教仲間と一緒に、イエズス会を立ち上げました。
イエズス会の大いなる目標は「世界宣教」。
ヨーロッパを出発したザビエルはインドを目指し、次にマレーシアに拠点を移し活動します。
すると、ザビエルは一人の日本人男性「ヤジロウ」と出会います。
ヤジロウは元海賊の逃亡者なのですが、非常に知的で彼から聞く日本の話は大変興味深い。
これを切っ掛けに、ザビエルは日本という国に関心を持ち、ワクワクしてしまいます。
そして、その翌年(1549年)には日本へ出発。
ザビエル、ヤジロウ、中国人、インド人、宣教師仲間という国籍軍団を結成し、インドのゴアを出発します
(ところで、この人たちは何語で話していたんだろう?)
植民地化の先兵隊?
よく、中世のキリスト教宣教師は「他国を植民地化すための先兵隊だ」などと言われます。
確かに、そういった一面もありました。
外国に宣教師を送り込んで、現地の人々を教化しながら信仰者を増やす。
そして、ある程度信者が集まったら…キリスト教以外の信仰を敵対視してバトルを仕掛け、軍隊を送り込む。
武力で統治を制圧したら植民地化を開始…。
キリスト教伝道の裏側には、そんな悲しい物語もありました。
宣教師の中にはそれを知た上で、伝道していた人もいたでしょう。
ザビエル自身はそんな腹黒い宣教師ではありませんでしたが、同業者の中にはその手の事業に手を染めている人もいました。
また、細かいことを言うとザビエルの海外での活動資金はどこから流れて来るか?
と考えると…黒い伝道活動と切り離せない所がありまして、ややこしい問題を抱えています。
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日本でのキリスト教伝道
鹿児島で布教開始
4カ月の船旅の末、ザビエル一行は鹿児島に辿り着きます。
日本についたザビエルは「ヨーロッパ同様日本の社会もピラミッド型の封建主義なんだなぁ」と気づきます。
王様⇒家老⇒諸侯⇒一般人という序列で成り立ってる。
だけど、日本の社会ってヨーロッパ世界よりも、いい感じかも知れない…。
礼節は大事にするし、人の名誉を重んじるし、人々は朗らかだし。
侍はみんな強そうだし、この人達をキリスト教に改心させたら最高の騎士になるよ!
(ザビエルは騎士の経験があるので、武士を見る目があります)
こんなに素晴らしい社会に、キリスト教が広まったらどんなに素晴らしいだろう…。
これは、ザビエルだけでなく他の宣教師も感じていた事です。
ザビエルが着いた場所は鹿児島だったので、とりあえず島津貴久に許可をもらい伝道開始。
しかし、鹿児島の仏僧たちに警戒されてしまったので、一行は京都に向かう事にしました。
(鹿児島に居づらくなったのです…)
天皇のいる京都へ、そして挫折
ザビエルは日本の王様は天皇だとし、天皇に会いに京都を目指します。
天皇にお墨付きをもらえば、その後の伝道がスムーズに行くだろう…と考えたのです。
途中、山口県の大内義隆に謁見するなどして、4カ月後には京都へ到着したザビエル。
ところが京都は戦乱の影響で荒れ放題、見るも無残な地獄絵図。
そんな状況で、ワケの分からん外人が来て「会ってください」
と言っても、天皇もそこまで暇じゃない。
ならば、と言う事で将軍の足利義輝に狙いを定めるが…会うに及ばず。
せめて、比叡山のお坊さんと討論会をやってもらいたかったが…相手にされず。
(大事な話かがある時は、いいタイミングで行かなきゃね)
結局ザビエルは、天皇から布教の許しを得ることなく京都を後にしました。
「せっかく苦労して京都まで来たのに…オレ何やってんだ?」
ザビエルの胸は虚しさでいっぱいでした。
失意の帰り道
行き場を失ったザビエルは、がっかりした気持ちで九州に戻る事にします。
でも、帰り道では意外な収穫がありましたよ!
まず、大内義隆との件。
最初に大内氏を訪ねた時は、会っただけで布教の許可は下りなかったのですが、2度目の面接では、ザビエルは宣教師のカッコいい服を着て参上し、南蛮渡来のおみやげ品を沢山用意していきました。
そうしたら、義隆は機嫌を良くして…布教OK!
やったぜ!
次は豊後の大友宗麟。
ここでは、布教活動を2カ月間やらせてくれました。
宗麟はザビエルとの出会いが忘れられず、27年の時を経てキリストの洗礼を受けています。
きっと、ザビエルの滞在中もいろんなサービスをしてあげたと思います。
(宗麟はキリスト教のみならず、ヨーロッパマニアでもあります)
本命である、天皇からの天下布教の許可はもらえませんでしたが、ラストで少し挽回できたザビエルでした。
さらば、日本
ザビエルは2年間を日本で過ごしますが、当初の目的は果たせぬままインドに戻ってしまいます。
と言うのも、日本にいる間にアジア拠点であるインドからの音信が途絶え気味になり、ちょっと心配になりましたので…。
ザビエルは、ああ見えてもイエズス会のお偉いさんなんで、現地の事業所を放って置くワケにいかんのです。
こうしてザビエルは、日本での布教を仲間の宣教師に託し、インドに帰りました。
「やっぱ、いきなり日本は早かったかな?その前に中国でしっかり布教しなきゃ」
なんて考えながら、日本を後にします。
その翌年、死んじゃいましたが…。
ザビエルの本名
ザビエルの本名は『イグナティウス・ロヨラ・ザビエル』と言います。
早口言葉に仕えそうですね。
「ロヨラ」の所が難しい…、
ザビエルの知名度
ザビエルは日本のみならず、世界的な有名人です。
イエズス会の設立メンバーですからね。
ザビエルペンギン
近頃はザビエルの顎に2つの黒い点を付け、上下をひっくり返すと「ペンギンに見える」とほざく不届き者がいますが、、やってみると…かなり面白い!オススメ。
まとめ
1549年、鹿児島に日本初のキリスト教宣教師がやって来ます。
その名は「フランシスコザビエル」。
スペイン人の宣教師です。
ザビエルは仲間と共にイエズス会を立ち上げ、世界宣教に乗り出しました。
そして、日本人逃亡者「ヤジロウ」と出会いが切っ掛けとなり、日本に上陸。
ザビエルは天下布教の許可を得る為に、天皇への謁見を試みますが…願いは叶わず。
その後、日本での布教活動は仲間の宣教師に託し、アジアの布教拠点であるインドに帰って行きました。