宇喜多秀家は27歳の若さで五大老の一人に抜擢された、戦国時代の超エリート大名。
ところが、関ヶ原の戦いに負けた後の秀家は、八丈島への島流し。
天国から真っ逆さまの大転落。
しかし、島での生活では83歳というご長寿を全うします。
なんと、まぁ…ご立派!
八丈島では、どんな暮らしをしていたんでしょうね?
意外と幸せだったのかな?
今日は、そんな宇喜多秀家が見せた、流刑地での素顔について書いてみます。
スポンサーリンク
八丈島の暮らし
八丈島には大昔から人が住んでいて、宇喜多秀家が島流しにされる頃には一応、人間の住む島として認知されています。
鎌倉時代からお代官様もいるし、地元八丈の島民も元気に暮らしていました。
ただ、八丈島ではお米の栽培が難しくて食糧事情がかなりキビシイ。
農業も少しはやっていましたが生産効率が悪く、ちょっと飢饉にハマるとすぐに餓死者が続出したそうです。
八丈島の産業としては一応、黄八丈(黄色く染めた絹織物)、造塩などがあります。
ただ、島全体をリッチにするほどのパワーは無いんですよね…
いずれにしても八丈島で暮らすって、ちょっと大変。
地元住民でも苦労していますから、そんな所に他所者がヘラヘラやって来たら、たちまち生命の危機です。
秀家は、そんな生活の厳しい離島に放り込まれたのでした。
スポンサーリンク
八丈島の島流し、第一号
島流しと言う刑罰は昔からありましたが、八丈島に流すのは秀家が初めて。
そして、この事業が成功して?以後、八丈島は島流しの人気スポットとなりました。
(江戸時代に入ると、続々流刑者たちが八丈島に送られて来ます)
ただ、島に流されても、宇喜多秀家は元五大老という人角の人物。
それなりに、丁重に扱われます。
秀家は長男、次男、それとお付きの者を引き連れてのお出ましです。
しかも、八丈島のお代官様は、秀家のファンだというウワサ。
(秀家の息子は代官の娘を嫁にもらっています)
厳しい処罰を受けはしましたが「地獄のどん底」と言うワケでは無さそうですね。
豪姫(前田家)からの仕送り
秀家の奥さんと言えば、ご存知の豪姫。
(前田利家の三女)
豪姫は秀家の流罪が決まってから、旦那と離縁し前田の実家に戻ります。
だけど…八丈島には自分の子供がいて、一応?秀家の事も気になります。
それで心配だから、島にいる家族へ米とかお金などのの仕送りをしました。
別れてしまえば宇喜多の事など、どうでもいい筈なんですが、情けをかけて仕送りをしてくれたのです。
毎年、お米を何十俵、お金を何十両だとか…。
これだけあれば、島での生活もだいぶ楽になります。
(実際には、家族や家臣達と山分けするので、ウハウハってほどではありませんが…)
ただ、この仕送りも毎年来るとは限りません。
と言うのは、途中で船が海賊に襲われたりすると、その年度はおあずけ。
そんな時はきっと、もの凄いショックだったでしょう。
福島正則の酒
八丈島でのある日、島に一艘の船が漂着します。
すると、ボロい服を着た島のオッサンが近づいて来て、船の乗組員に声をかけて来ました。
「お~い、だいじょうぶか~?」
「いや~、とんでもない方へ流されて参りましたよ…」
乗組員は話を交わすうちに、その汚いオッサンは「秀家公」だと分かります。
「なんと、秀家様とは驚いた!服はボロいですけど、お元気そうで…」
「うむ、これが八丈島スタイルじゃ!」
そして、この船には福島正則の命で、広島から江戸に届ける予定の酒が積んでありました。
秀家は、これに目を付けます。
「へえ~、アンタたち福島さん所の家臣なんだ。過日はお世話になりましたよ…
(関ケ原ではガチでぶつかり合いました)
ところでさ、おたくの船にいっぱいお酒積んでる様だけど…一本分けてくれないかなぁ?オレ八丈島に来てから、酒飲んでないんだよ~美味そうだな~」
福島の家臣は、一瞬躊躇しながらも秀家に酒を分けてやりました。
すると、大喜びの秀家!
その後、江戸に向かった福島の家臣は、事の次第を正則に報告します。
かつての敵将へ勝手に酒を送ったワケですから、絶対に怒られると覚悟しながら…
しかし、正則は…
「おお、それは良い事をしてくれたね。それは、きっと後世に残る名エピソードになるよ!」
と言って家臣にボーナスを支給してやりました。
(この話は有名ですが、史実的にはちょっと微妙、、)
内赤盆の誠意
秀家が島に来てしばらくすると、幕府の役人が様子を覗いに来ました。
秀家に叛意は無いだろうか?
八丈島を制圧なんぞしてないだろうか?と。
役人は秀家を代官の屋敷に呼び、面談を兼ねた宴会を開きます。
すると秀家は御馳走をもりもり食べ、酒を美味そうに飲み、楽しそうに笑い、島の話で大盛り上がり。
「なんじゃ、この人は…流刑地でリア充かい?」
しかも、宴会の料理をお代わりし、それを家族のおみやげに持って帰りたいと言います。
なんだか…すっごい肩の力が抜けている( ^ω^)・・・
そして、役人は江戸に帰る際、秀家から「赤いお盆」をもらいました。
もらった当初はその意味が分からなかったので、江戸に戻ってからお盆について調べてみると…それは、宇喜多家に伝わる家宝「内赤の盆」でありました。
つまり、これは秀家の「叛意は無い」という意味…。
って言うか、ある意味人間性が一皮むけちゃってる。
大名復活の誘いも断っているし…。
ちなみに、関ヶ原の合戦に参戦した武将で、一番最後まで生き残ったのが宇喜多秀家でした。
これじゃ、どっちが幸せか分からないですね。
八丈島が恋しい
秀家の到来以降、流罪を食らった宇喜多の家は八丈島の名族として栄えます。
江戸時代が終わるまでず~っと。
そして明治維新を迎えると、ついに秀家の罪は解かれました。
宇喜多の一族はその後、前田家のサポートを受けて東京に移住して来るんですが…
その半分は、八丈島での暮らしが忘れられず島に戻ってしまいました。
普通に考えると、島暮らしよりも東京にいた方が快適だろうに。
なのに、どうして…?
宇喜多一族にとっては新時代を迎えた本土よりも、八丈島での穏やかな暮らしの方が幸せに思えたのでしょう…
(秀家が釣りをしたと言う八丈島の南原海岸には、秀家と豪姫の石碑が立ち、二人仲良く海を眺めてています)
まとめ
豊臣政権下ではスーパーエリートだった宇喜多秀家。
ところが、関ヶ原の戦いでは負け組(西軍)につき没落していきます。
そして、八丈島へ流される。
島の生活は、決して楽ではありませんでした。
しかし、前田家からの援助もありボチボチやっていける感じ。
秀家は八丈島で50年の流罪生活を送りますが、長寿を全うし意外と幸せだったのかも?
秀家の子孫は八丈島で繁栄し、島での暮らしを愛していました。