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備中国とは?
備中国とは、岡山県の西半分を指す昔の地名のこと。
備前と備後に挟まれているので備中。
「備~」シリーズの真ん中に位置しています。
大昔は備前、備中、備後を三つまとめて「吉備国」と呼んでいました。
しかし、奈良時代から吉備国を分割して、それぞれの国に名前を付けました。
と言っても前、中、後をくっつけただけですね。
その一、その二、その三、…みたいな感じ。
ところで、今どき備中国なんて言われてもピント来ないですよね。
昔の話ですから。
まぁ、それでも備中を少しでも身近に感じてもらえるとしたら…
とりあえず、倉敷市なんかイメージし易いんじゃないでしょうか?
白壁の街並みを美しく保全した観光地、倉敷。
旅行で訪れた事のある方も多いでしょう。
あそこは備中です。
ついでに、倉敷といえば瀬戸大橋がかかっていますよね。
岡山県と香川県を繋ぐでっかい橋。
あれも、備中の景色であります。
はなはだ、現代的ではありますが…
あと、もう一つだけ紹介します。
備中国内には、今で言う岡山県「総社市」(そうじゃし)という街があるんです。
そこには昔、鬼ヶ島がありました!(桃太郎さんの…)
で、鬼ヶ島の城を「鬼ノ城」(きのじょう)と呼んだそうです。
かなりヤバいですね「鬼」ですから。
でも、本当に鬼はいたらしい。
総社市のホームページに載っていますからね。
備中国、恐ろしや…。
(実際は、山頂に砦を築いていた外国人グループを地元民や旅人が恐れていたという話)
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備中国の歴史
岡山県を中心とする場所にあった古代国家「吉備国」。
そこを治めていたのは地方豪族の吉備氏でした。
吉備氏の勢力は凄まじく、当時最先端を突っ走っていた出雲や大和の豪族と肩を並べるほど。
ものすんごい昔の話ですが…。
(吉備氏の娘さんがヤマトタケルのところへ嫁に行った…とかいう古い時代です)
さて、少し時代が進んでもうすぐ奈良時代って時に、吉備国は備前、備中、備後に三分割されます。(ここで備中が誕生しました)
そして、それぞれの国を貴族とか皇族系の人たちが治めていきます。(藤原系が強いかな?)
平安時代が終わるまでは、そんな感じ。
鎌倉時代では北条の人たちが入り込んできましたね。
そして、室町時代。
室町時代になると、細川系の人が備中を引き継いで治めます。
しかし、ラストは戦国時代に突入して尼子氏、毛利氏、宇喜多氏がもつれ合い…関ヶ原の戦いではちゃぶ台がひっくり返える。
江戸時代に入ってからは、備中高松藩となり池田家→水谷家→安東家→石川家→板倉家と引き継ぎます。
備中高松藩では、城主が入っても後継ぎができなかったり、転封されたりでお家がしょっちゅう変わっていました。
明治維新においては、備中高松藩は朝敵扱いされてお城を取られてしまった!(戊辰戦争)
その後、廃藩置県を経た備中高松藩はお隣の岡山藩と合体して「岡山県」となります。
以上、備中国でした。