永享とは、室町時代の1429年~1441年に定められた元号のこと。
幕府が始まってから、100年ぐらい経った時代です。
その当時の足利将軍は「最強将軍」6代目義教(よしのり)でありました。
義教の在任期間と永享の時代は、ほぼすっぽりと重なります。
ですから、永享=義教とイメージしてもらうと分かり易いと思います。
永享は、なかなか苛烈な時代でした。
義教のおかげで…。
ちなみに、天皇は102代の御花園天皇。
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永享の鬼将軍、義教就任
足利義教は足利義満(金閣寺の…)の五男で、将軍に就任する前はお寺で坊さんをやっていました。
前将軍の足利義量(5代目・よしかず)は虚弱体質で精神も崩壊して全く使い物にならん。
そこで、幕府は義量の父さんが大御所としてまとめていました。
ところが…その父さん(義持・よしもち)は、お尻からばい菌が入って急死!
(お尻の「おでき」をボリボリ掻いちゃったんです…)
そこで、急きょ次期将軍を決めよう…という運びになります。
(さぁ、誰にしよっかな?)
当時、将軍の候補者は何人かいましたが、結局は義教の決定。
しかも、クジ引きで決めるという有様。
(神様にお伺いを立てるという意味もありましたけど…)
ただ、義教ってめちゃくちゃ頭が良くて、性格も男っぽいので将軍的と言えば将軍的。
まぁ、この人だったらウマくやってくれるんじゃないか…
皆の期待を背負って登場した義教でした。
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将軍っていうか独裁者
さて、新たな将軍職の就任した足利義教。
彼には大いなる野望がありました。
それは、室町幕府の権威復興。
義持が将軍をやっていた時は、諸大名にナメなめられてしたフシがありました。
そこで、コイツを何とかしよう…義満オヤジみたいに強力な幕府を復活させよう…と画策します。
いろいろやりましたよ。
自分の好きな人に政務をやらせたり、有力大名の権限を制限したり、自分の弟に延暦寺の代表にしたり、嫌いなヤツの首を刎ねたり…。(もっとスゴイ事もやりました)
超強引なワンマン社長。
そこで、ついたあだ名が「万人恐怖」。
そんな義教に、みんなはもちろん反発します。
しかし、そんなのもになびく人じゃない。
さらに、気に入らない人はあの世へ行きだし、根性が据わってるし、頭脳明晰で仕事はデキるし、ちゃんと業績は上げるし…。
つけ入る隙がないのです。
「義教」の名前を聞くとみんな戦々恐々でした。
しかし、そんな義教に思いっきり反抗して来た人がいます。
それは、鎌倉公方(室町幕府の関東の親分)の足利持氏(もちうじ)でした。
いい根性してますね‼
ガンバレ!持氏!
永享の乱1439年【義教VS持氏】
足利義教は幕府の権力強化に為に、諸大名はもとより鎌倉府にもヘーコラする事を求めます。
しかし、これに屈しないのが鎌倉公方の足利持氏。
持氏は、義教が将軍になった事がそもそも納得できない。
それどころか、6代目将軍は自分がやるつもりでした。
「なんで、あんなぽっと出の義教が将軍なの?おかしくない?
あいつ、くじで選ばれたお坊さん将軍だよね?なんで、オレが将軍に選ばれないのさ…」
不満たらたらの持氏。
しかも、京都の室町幕府と関東の鎌倉府は何十年も仲が悪い。
それを仲裁しようと、関東管領の上杉氏が「まあまあ」と輪ってはいると、持氏はさらに機嫌が悪くなります。(関東管領は鎌倉公方の補佐役)
「関東の人間なのに、なにが『まあまあ』だよ。あんた、どっちの味方してんだ?」
怒りの刃はついに上杉氏まで及び、持氏を恐れた上杉氏は鎌倉から逃げ出し地元の上野国に避難します。(殺されそうになったから)
これを見た足利義教は、鎌倉が反逆しているとして幕府軍を関東に派遣しました。
いよいよ、永享の乱の始まりです。
義教VS持氏。
持氏は関東のプライドをかけて戦います…
しかし、幕府軍+上杉軍+今川軍のプレッシャーに負けて敗退。
敗れた持氏は頭を丸めて反省の意を表し、上杉氏も命だけは助けてやって…と頼みます。
しかし、これを許さぬ義教はさらなる追い討ちをかけ、持氏と息子の義久までも自害に追い込みました。
義教としたら関東の勢力を警戒していたので、潰すチャンスを得てラッキーだったのかも知れません。
しかし、関東の反乱はこれだけでは収まりませんでした。
結城合戦1440年
永享の乱で鎌倉は滅亡し、これにより関東管領の上杉氏の力が増大します。
すると今度は、上杉氏と下総の結城氏が対立します。
「上杉なんかヤダ。それだったら、まだ鎌倉公方の方がよかったよ…」
鎌倉公方は戦に敗れましたが、公方を惜しむ人や鎌倉府の残党はまだ生き残っていました。
そして、結城氏は足利持氏の遺児を担ぎげて反乱軍を結成。
(幕府を相手にいい根性してますね)
これに対し、義教はもちろん討伐軍を組織しました。
上杉氏、今川氏、小笠原氏などの連合軍を作って結城を潰しにかかります。
結城氏は籠城戦で迎え討ちますが、主君結城氏朝の討ち死により敗北を喫します。
そして、持氏の遺児(春王丸と安王丸)は殺され、永寿王丸は京都に連れていかれました。
京都の幕府と鎌倉府は、確かに以前から対立はしていました。
しかし、足利義教が将軍になっていなかったら、ここまでの大事にはならなかったでしょう。
まぁ、義教としては幕府の権力があがったので、これで良かったのですけど…。
結城合戦の終結すると同時に、永享の時代も終わりを告げます。
と言う事は、それは足利義教の終焉も意味します。
関東を締め上げた義教ではありますが、この後とんでもないどんでん返しを食らう羽目になるからです。