宝徳とは室町時代の元号で、1449年~1452年までを指します。
この時代は、特に大きな戦や事件もなく平和に過ごせました。
しかし、足利義政と足利成氏がそれぞれ将軍と鎌倉公方に就任した時代でもあるんですね。
これは、京都と関東に大戦の時限爆弾を仕掛けた様なもの。(応仁と享徳)
しかも、ほぼ同時に。
宝徳の時代は、爆破までの時間をカチカチと静かに刻みます。
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足利義政の将軍就任
嘉吉の乱(1441年)で横暴将軍足利義教(6代目)が暗殺された後、息子の義勝(7代目)が将軍職に就きますが…こちらは赤痢を食らってすぐに死亡。
こりゃ、イカン。
そこで、次の将軍を探さにゃならんのですが…この時登場したのが足利義政(8代目)でした。
ご存知、銀閣寺の義政です。
義政は次なる将軍として血筋的には文句なしなんですが、まだまだ小さいお子ちゃま。
当時6歳でした。
これでは将軍の仕事なんか出来ません。
そこで、幕府は義政がもう少し大きくなるまで、将軍は空席にしたまま待つ事にしました。
しばしの間、将軍修行に打ち込んでもらい来るべき日を待ち望みます。
そして、宝徳元年。
ついに義政は、元服を済ませ正式に将軍職に就きます。
もう、やる気満々でしたよ。
「オヤジを超えるような立派な将軍になってやるぜ!」って。
(結局は銀閣寺の義政になってしまいますが…)
就任当初はバリバリ気合が入っていましたが、後にやる気を失い応仁の乱の火付け役にもなってしまった足利義政。
そんな義政が将軍になったのが、宝徳という時代でした。
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足利成氏の鎌倉公方就任
関東の親分さん(鎌倉府)も、宝徳の時代に入って代替わりすることになりました。
代替わりって言うか復活って言うか、微妙なんですが…空席だったボスが復活すると言う意味では京都も関東も似たような感じ。
成氏(しげうじ)のオヤジさんの代では、地元関東の大名とトラブって…更に幕府とケンカして鎌倉府は滅亡の憂き目に遭います。(永享の乱)
確かに幕府相手にバトルはしましたが、滅亡させるまではやり過ぎだろう・・って事で数年間の時を経て、鎌の倉府は復活OKの許可が下ります。
そこで、次なる鎌倉公方として登場したのが足利成氏でした。
永享の乱で死んだオヤジ(足利持氏・もちうじ)の息子が足利成氏。
血筋的には間違いない人物です。
めでたく鎌倉公方に就任した成氏。
しかし、この成氏が関東に降り立ったことが、後に戦国時代の先駆けとなる「享徳の乱」に火を付ける切っ掛けとなります。
宝徳の時代は大丈夫でしたが、時が享徳に変わるとドカンと爆発します。