【伊達政宗とは?】政宗エピソード3選!愛姫や三日月マークなど…

伊達政宗1東北の武将

奥州の戦国大名、伊達政宗。

「独眼竜政宗」とか「遅れて来た英雄」と呼ばれたあの人です、みなさん良くご存知の…

テレビドラマとか、漫画などでも主役を張ってる人気キャラですよね。

 

東北伊達政宗

 

今日は、政宗の生涯をサーっとおさらいしつつ、有名なエピソード等をご紹介します。

兜の三日月マークとか、眼帯の話とか…

サクッと読んで、楽しんで下さいね。

 

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伊達政宗とは?政宗の生涯

伊達政宗は、江戸時代に仙台藩(宮城県)を築いた戦国大名。

世間的には「独眼竜政宗」の名で良く知られていますね。

 

三日月マークの兜と、黒い眼帯が印象的なあの人です。

(ただ、それってテレビドラマのイメージで、作られたところも少々あるんですが…)

政宗の出生

政宗は、1567年に米沢(山形県)で、伊達家の長男として生まれました。

ところが、幼少(6歳ぐらい)の時に痘瘡(天然痘のこと、当時の死亡率高い)を患って右目を失明。

 

右目は白濁し、ヴィジュアル的にイケてないのを気にした政宗は、ウジウジとした暗い少年期を過ごしました。

しかし、側近の片倉小十郎に右目を刀でえぐり出す!?という、ショック療法をしてもらったのを機に、政宗は元気を取り戻したといいます。(伝説か?)

 

初陣

10歳で元服(成人式)した政宗は、その後13歳で愛姫(めごひめ)と結婚します。

ちなみに、愛姫はこの時12歳。

現代の感覚では、まだ子供ですよね…

 

それはともあれ…大人になった政宗は、15歳で初陣

そして、お隣の戦国大名の相馬氏と戦い…見事武功を立てました。

かくして、政宗は一人前の武将として認められます。

 

当時、政宗に対する周囲の期待は大きく、初陣した戦にはいつもより、沢山の兵が集まったそうです。

 

目指せ天下取り

政宗は、18歳で家督を継承します。

そして、大胆にも「天下取り」の目標をぶち上げました!

 

で、そのためにも「10年以内には東北地方を統一しなきゃね」

って事で、勢力拡大を繰り広げます。

 

その間、政宗の父さん(伊達輝宗)が拉致されて死んだり…

政宗自身が毒殺されそうになったり…

秀吉の惣無事令を無視しながらも…

がむしゃらに領土を広げて、奥州のほとんどを制圧するに至りました!

 

そこで「やったぜ!!ここまで来れば、天下取りのレースに参戦できる」

と、言いたいところですが…ちょっと遅かった様です。

 

政宗よりも先に、天下取りのリーチをかけて来たヤツがいました。

例のあの男です…豊臣秀吉

 

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豊臣→徳川→仙台藩

東北に、大きな勢力を広げた伊達政宗。

 

しかし、悔しい事に豊臣秀吉はそれよりも先に…日本の半分以上を平定してしまった。

(大急ぎで、勢力を広げた政宗ですが…あぁ、あと10年早ければ!)

 

さすがの政宗も、この差はひっくり返せません。

しかも、秀吉の発した「惣無事令」を無視して戦を続けていたので、政宗はブラック大名の如く目を付けられ…崖っぷちスレスレのピンチ。

 

「おい政宗っ、オレの『惣無事令』をシカトするとは、良い根性してるじゃねえか…」

 

ここで逆らったら、かなりヤバいです。

自分の命ばかりか、家族や家臣たちにも迷惑が及ぶかも知れません。

 

そして、政宗は白装束を身にまとい、小田原城を攻めてる最中の秀吉の所へ向かい…

ついに、従う意思を示します。(豊臣に敵対する気持ちは死んでます…の意味)

 

「小田原攻め」を簡単説明!

 

これにより、領土はガッツリ取り上げられましたが…伊達家は存続を守ります。

 

その後、秀吉が死ぬと、今度は家康の時代へ。

もう、この頃になると「天下を取る」って言うよりも、伊達家を大事にしなきゃいけない時代。

 

政宗は、娘の五郎八姫(いろはひめ)と徳川忠輝(家康の6男)を結婚させて、徳川との関係を強化します。

もちろん、関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍に加入しました。

 

やがて、戦国の時代が終わると、政宗は陸奥国に仙台藩(宮城県仙台市)を開きます。

仙台藩は62万石の巨大藩で、これより大きいのは加賀藩(前田)と薩摩藩(島津)しかありません。

 

天下取りの野望は果たせなかった政宗ですが、これだけやれば十分立派ですよ!

遅れて登場した割には、随分追い上げていますからね。

 

島津や前田と並び称されるなんて、ものすごい名誉な事です。

 

江戸時代に入ってからの政宗は…領土の開発にめちゃくちゃ力を入れ石高をアップし、仙台の城下町に京都と勝負できるくらいの都市を築きました。

 

戦国大名一覧【東北・北海道編】

 

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政宗の黒い眼帯・エピソード①

政宗と言えば、あの黒い眼帯がトレードマーク。

黒い刀の鍔(つば)にヒモを通して、右目にかけるアレ。

 

でも、政宗があの眼帯を着用しだしたのは、昭和の時代に入ってからというウワサ。

(ちょっと、以外?)

 

ただ、政宗が右目を患っていた事は間違いないようで…

当時の古文書には「白い布を当てていた」という記録はあるそうです。

 

でも、刀の鍔を眼帯にしていたワケじゃない様ですね。

 

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あのスタイルが確立したのは、渡部謙の演じた大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987年)からでして、それ以降「政宗=黒い眼帯」というイメージが定着します。

 

史実とは、若干違いますね…

でも、あれだけ大ヒット(視聴率40%)してお茶の間を興奮させたワケですから、そりゃ刷り込まれますよ~。

 

あ、そうそう。

政宗の眼帯といえば、痘瘡を患ってただれた右目を隠すものとされています。

 

で、この病んだ右目を政宗の守役であった片倉小十郎が刀でえぐり出して治療したという、恐怖の伝説があります。(ギョエ~)

 

目に刀をぶっ刺して、激痛で失神しそうな政宗に「コラーッ、しっかりしろー!」

と、喝を入れる小十郎…

 

こちらは、政宗の死後暫く経ってから伝わる話。

それに政宗の骸骨には、それらしい刀傷も見られないので「刀でグサッ」は、少し盛ってるかも知れません。

 

 

三日月の兜・エピソード②

伊達政宗のと言えば、三日月マークのアレですよ。

黒い鉄のヘルメットに、三日月形の前立てをくっつけたヤツ。

 

たぶん、戦国武将の兜で一番カッコイイです?

 

伊達政宗銅像

 

では、その三日月の意味とは?

これは「妙見(みょうけん)」という神様への信仰を表したものだそうです。

 

妙見様とは、北方を守護する武闘派の神様のこと。

北方系で武闘派なら、政宗にピッタリですね。

 

政宗妙見11

 

ただ、これには諸説あって他に「三日月=新月⇒新しく生まれる⇒新時代を築く」

と、解釈する説もあるようです。

 

世間的には、妙見説が主流ですが…

 

ちなみに、三日月を前立てに使用した武将に、山中鹿之助がいます。

鹿之助バージョンは、三日月をセンターに配置して、両サイドには鹿の角。

鹿之助も、やはり三日月を信仰の対象としていました。

 

政宗が、鹿之助のデザインをパクった…という話は聞いた事がないので、あの三日月は伊達家オリジナルだと思います。

 

 

愛姫・エピソード③

政宗の正室である愛姫(めごひめ)。

愛姫と政宗は、当然のことながら…政略結婚です!

 

戦国大名の奥さんは、好き嫌いで選べません。

お家のために結婚するのです。

ところが、愛姫と政宗は…当時としては珍しい、仲良し夫婦でありました。

 

姫伊達政宗愛

 

愛姫は田村家(坂上田村麻呂の子孫の家系!)という、東北の名家からお嫁に来ます。

 

しかし、若い頃の政宗は周囲の大名から信頼されていなくて、田村の家としても

「コイツ大丈夫か?政宗の巻き沿いはゴメンだよ」みたいな感じで疑心暗鬼。

 

そこで、愛姫に付いてきた田村系のお手伝いさんたちが、政宗を暗殺しようとします。

 

当然、伊達家中は田村家に対してギクシャク状態。(お手伝いさん風スパイは処刑)

こんな事のになれば、愛姫だってメッチャ気まずいんです。

 

しかし、政宗は「それはそれ、これはこれ」として、愛姫には優しく接します。

 

こうして、政宗と愛姫はゆ~っくりと時間をかけて愛情を育みました。

(雨降って地固まる?)

二人は互いにジジババになっても、思いやりを忘れない穏やかな夫婦だったようです。

 

愛姫は政宗に遅れて、86歳で生涯を閉じます。

 

愛姫が亡くなり、その後家臣が遺品の整理をしていると、謎の箱が発見されました。

「なんじゃこりゃ?」と思って開けてみると…その中には、政宗が愛姫に宛てた手紙や、政宗のメモ書きみたいな物が大事にしまってありました。

 

愛姫は政宗に先立たれてから17年間、夫との思い出を頼りに生きていたのです。

 

 

おまけ・政宗の料理

伊達政宗は文武多才な武将なんですが、その中で政宗が特にこだわった手習い事があります。

それは「料理」。

 

武将は武道はもちろん、みんな和歌とか、茶道とか、鷹狩ぐらいはしますが…

料理まで手を出す人は、当時のインテリの証拠。

 

マジ、教養人。

そして、政宗の考案した料理は今でも現役で活躍中。

 

笹かまぼこずんだ餅伊達巻高野豆腐仙台味噌…などなど。

どれも、皆さんご存知ですよね?

 

政宗伊達巻

 

グルメの政宗ですから…徳川将軍に料理を食わせる時などは、政宗自らメニューを考えて配膳までこなした、と言います。

愛情たっぷりで、極上の料理でもてなす。

 

ヘタに、毒見なんかしようもんなら「ゴㇽラァー!」と激怒。

丁寧に盛り付けた料理に、無粋に箸なんか突っ込まれたくなかったので。

 

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