豊臣と徳川の最終決着をつけた大坂冬の陣・夏の陣。
でも「なんとなく聞いた事あるけど、どんな戦だっけ?」
な~んて、素朴な疑問を持っている人も多いハズ。
今日は、そんなマニアじゃない方向けに「大阪の陣」を語ってみます。
マニア向けじゃないですから、大雑把に理解して頂けたらうれしいです。
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関ヶ原の後
関ヶ原の戦い(1600年)で、なんとか石田三成を敗った徳川家康。
と言っても、この勝利は加藤清正や福島正則などの、コテコテ豊臣系大名の奮戦によるもの。
だから、家康は石田三成がいなくなった後、彼らの気持ちが心配でした。
「ヤツら本当は豊臣派だから、このまま放っといたら心が離れてしまうかも知れない
三成という天敵がいなくなった以上、もうオレに味方する必要も無いしなぁ…」
そこで、家康は東軍にいた大名たちに領地をバンバン与え、秀吉の生前の約束通り豊臣秀頼と家康の孫である千姫を結婚させました。
コアな豊臣系大名を安心させるために。
すると、家康の作戦は上手く運び、外様の大名たちをまるめ込んで数年間が経過します。
「このまま、江戸時代が軌道に乗ってくれるかなぁ?」
ところが…
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豊臣に引き裂かれた○○
京都に、方広寺という立派なお寺があります。
これは、豊臣秀吉が国家の平和を祈念した開かれたお寺。
でもその後、お寺の建設途中の火事で燃えちゃったんですね。
それで、息子の秀頼の代になって、お寺を再建することになりました。
家康の勧めもあったことだし。
ところが…
方広寺の完成式典が間近にせまった、ある日のこと。
方広寺の鐘に「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌」
(こっかあんこう・くんしんほうらく・しそんいんしょう)
と言う、文字が刻まれていまして…これが、家康の反感を買ってしまうのです。
「なんじゃこりゃ?『家康』の名を引き裂いて、豊臣の子孫繁栄を願ってるんか?」
「そんなの考え過ぎだよ~」って言いたい所ですが…
家康は、ギャーギャー騒いで「絶対に許さん!豊臣にケンカ売られた!」
と、コトを大げさにします。
これが、いわゆる「方広寺鐘銘事件」であります。
1614年の事でした。
でも本当は、ケンカ売ってるのは家康の方。
お寺の鐘に文句をつけたのは、秀頼を潰す切っ掛けを掴みたかったからなんです。
こうして、方広寺のハプニングは大坂の陣へと発展して行くのでいした。
大坂の陣開始
方広寺の一件から、3か月後。
ついに、大阪冬の陣が勃発します。
関ヶ原の戦いから優に10年以上が経過し、世間的にはもう「天下は徳川のもの」
ってムードなんで、今さら豊臣と戦っても楽勝でしょう?
なんて思いませんか?
もし徳川がイヤだったら、とっくにデカい戦が起こって戦国時代の延長戦ですよ。
でも、そうはならなかった。
だから、何をやっても全ては家康の思うがまま。
大坂の陣?楽勝、楽勝(^^)v
ところが…
豊臣秀頼の守る大阪城は、手強かった!
大阪城を築城した秀吉は、ああ見えて攻城戦のプロフェッショナル。
だから、城造りに関しては非常に余念がなく、また金も腐るほど持っていたので、攻めても攻めても弾き返いされてしまう。
さらに、真田幸村が設計した出城「真田丸」では、散々痛い目に遭う徳川軍。
焦りまくる家康。
「うわわわわ~、ヤバいぞ、ヤバいぞ、ヤバいぞ~」
城落の目途が立たず、こんな戦をグダグダ続けていたら、味方の大名にナメられてしまう。
今は、徳川の方に付いているけど、昔はみんな秀吉に世話になった大名ばっかりです。
「こいつらが心変わりしたら、大変な事になるぞ~」
そこで、家康は豊臣に和平交渉を持ち掛け、勝敗をうやむやな形で戦にケリをつけます。
ホッとする家康。
本心では一旦、豊臣と講和を結んで、第2回戦目に備えるつもりです。
この方が、徳川にとって有利だからです。
一応、和平条約なんかありますが、そんなものは勝手に解釈して後は徳川のやりたい放題。
腹黒タヌキの得意技です。
しかも、徳川には家康よりももっと黒い本多正信が控えています。
正信は次なる戦を想定して、大阪城のバリヤーである外堀を速攻で埋め立てる。
本当は、そんな事やっちゃダメなんです。
講和条件にありませんから、反則です。
当然、豊臣から抗議を受けます。
でも、そんなの「知~らね!」
こうして、わざと両者の信頼を破って、夏の陣へと突入していきます。
夏の陣は冬の陣と違って、外堀のバリヤーが無いので大阪城は裸同然。
それでも手強い豊臣軍ですが、先の冬の陣とはワケが違います。
また、城から出てきて戦ってくれると、さらに好都合。
野戦は家康の得意分野ですから。
こうして、1615年5月8日。
大阪城は落城します。
豊臣秀頼と母の淀殿は自害。
ついに、豊臣と徳川の戦いに終止符が打たれました。
もしも豊臣が○○だったら?
惜しくも?徳川に敗れた豊臣。
そしてこの敗因は、淀殿にあるような気がします。
どうも、日本の戦は女性が口出しするとロクなことがありません。
ただ、これは豊臣の家系的な体質にも原因があります。
秀吉は天下を統一して、関白になってしまいました。
征夷大将軍にならないで。
征夷大将軍やっとけば良かったのにさ…
秀吉が関白になったおかげで、豊臣の家は武家って言うよりも宮廷風のお公家さまみたいになっちゃったんですね。
宮廷では武家と違って、女の人の意見が自然と強くなってしまうんです。
すると、淀殿がどんどんデカいツラをしてくる。
淀殿が全部ダメって、事ではないんです。
豊臣を守るために、必死になって頑張ってました。
でも、戦の時だけはちょっと黙ってて欲しい。
せっかく、百戦錬磨の真田幸村や後藤又兵衛がいるんだから、彼らの意見をもっと尊重すればよかったのに…
特に、幸村は家康キラーですからね。
総大将は秀頼でもいいんだけど、幸村を参謀のトップにでも置いておけば家康も相当苦戦したでしょう。
そして、戦がもつれて長期化したら…勝敗の行方はどちらに??
豊臣に恩がある大名が、戦線離脱なんかしたら・・・分かんないですよ~。
(「もしも」の話なんで勝手に書いてますが)
家康は死んでいた?
ちなみに、大阪城で自害したハズの豊臣秀頼なんですが、一説によると戦の後に鹿児島に逃げて生きていたとか…?(昭和の時代になって、秀頼っぽい遺骨を発見?)
他に、徳川家康は夏の陣で後藤又兵衛に斬られて死んだとか…
「又兵衛じゃなくて幸村でしょ?」説とか…
大坂の陣には、いろんな伝説があるようです。
以上、大坂の陣をさくっと語ってみました!