武田信玄は1573年に病没します。
しかし、信玄は大きな国や、武将としての思想やノウハウを残してくれました。
そして、信玄の偉大な遺産を受け継いだ者は・・・息子の勝頼??
いいえ、勝頼は信玄の遺言をことごとく背いて、ついには武田家を滅亡に導いてしまいます。
じゃあ、全てが水の泡?
いいえ、そんな事ないです!
信玄の生き様は、かつて武田に半殺しにされた家康が受け継ぎ、井伊直政がコピーして徳川によって長く引き継がれました。
今回は、信玄が死んだ後のお話をお送ります。
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信玄の遺言
「自分が死んだら、欲張って国を大きくしないで、国内の発展を心掛けよ。
あと、何か困ったことがあったら上杉謙信を頼れ。
謙信は日本一義理堅い人だから、謙信に頼めば大体OKだ。
お前が、オレの言った通り国を治めれば、何も心配することは無い…」
(我死するの後、妄りに兵を動かす事勿れ、唯国政を修め、寇来たらば之を防ぎ寇去るらば之を守れ。・・・上杉謙信は義人なり、天下未だ其比を見ず、一旦国を以て之に託する時は泰山よりも泰し。汝我言葉を用いれば、吾復た何かを恵えん)
信玄はそう言い残して、天国に先立ちました。
ところが、息子の勝頼は、信玄の遺言に「ことごとく」背きます。
オヤジの信玄があまりにも偉過ぎたので、周りの武将から子供扱いされないように、無理してがんばっちゃった…
勝頼はバカじゃないし勇猛なんですけど、周囲の目を気にしてしまったんですね。
側室の子供である勝頼は、周囲から「代打の殿様」みたいに思われていました。
なんとな~く。
勝頼本人としてはそれが不本意でして、ちゃんと自分の実力を認めてもらいたい。
でも、おとなしく信玄の遺言に従っていては、皆をあっと言わせるチャンスが無い。
そこで、信玄の時代よりも領土を広げたり、新しい城を造ったり…
しかし、これが後で命取りになりました。
「国をデカくしちゃ、ダメだよ」って言われていたんですが、我慢できなかったのです。
偉い人の後を継ぐって、そこが大変なところ。
それに引き換え、徳川秀忠は立派ですよ~。
どこからどう見ても偉くないし、家康オヤジを越えようなんて、全然考えていませんから。
偉人の後継者は自分を我慢できる人か、超普通の人が良いんです。
しかし、勝頼にはそれが出来なかった…
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織田よりも豊臣よりも武田!
大名家には、それぞれの家ごとに「家法」という法律があります。
家法には、武士の掟や地主の権利や義務、道徳、軍事、裁判等に関することが定めてあります。
で、その内容は大名家ごとに違うんですね…
武田家には武田家の家法があり、織田家には織田家の家法があります。
徳川家康は江戸幕府を開くにあたって、家法を今一度見直し練り直す必要に迫られます。
そこで、いろんな大名家の家法を参考にするんですが、その中で一番良く出来ていたのが武田家の家法だと、言っています。
(家康は信玄ファンなので、贔屓目に見ていたところもあるかも知れませんが…)
今川よりも、織田よりも、北条よりも、豊臣よりも、武田が優れている、と。
特に軍法に関しては、思いっきり武田流を参考にしています。
これは徳川の重臣、石川数正が豊臣に寝返ってしまったために軍法を切り替えたんですが、後々になっても、軍法の変更は「正解だった」と思い返しています。
また「この軍法は間違はないから、今後も続けるように」とも言っています。
(其法今に至り違わず、向後弥弥其法を廃すべからず)
そして、武田家法に則った軍法の導入し、実践のレベルまで鍛え上げたのが井伊直政でした。
井伊直政が別格な理由
武田家が滅亡を迎えた時、織田信長は武田の武将を皆殺しにするつもりでした。
でも、殺されるのはイヤですから、他所の国へ逃げますよね。
そこで、逃げ行く武田家臣の受け皿になったのが徳川家康。
信長には「武田系を勝手に入れちゃダメだ」
と言われていましたが、こっそり内緒で抱え込みます。
そして、後に石川和数正の件もあって、本格的に武田流軍法に切り替えます。
で、切り替え作業の指揮を執ったのが井伊直政。
さっき、言いましたね…(*’ω’*)
ところで、徳川家の武田ファンって、家康だけじゃない。
他にも、たくさんいました。
だから、直政の下に武田系武将が入って来ると、ヤキモチを焼くヤツが出て来るんです。
「いいな~アイツばっかり得して、ずるいぞ~」なんて…榊原康政とか。
まぁ、そのくらい『武田』って言うとブランド力があって、憧れの的でした。
また、実際に強いし。
そんなワケで、武田家臣を組み込んだ井伊家の存在は、徳川四天王の中でも別格扱い。
(四天王→井伊直政、本多忠勝、榊原康政、酒井忠次)
江戸時代に入ると、直政は京都の抑えとして滋賀県に30万石を貰います。(彦根藩)
石高だけ見ても、ずば抜けて高いですよね。
武田家は勝頼の代で潰れてしまいましたが、武田の家法や武田武士の志は家康によって継承され、その後も長く生き延びることになりました。
そして、武田の赤備えは井伊家の彦根藩で命脈を保ち、平成の時代でも現役?
「ひこにゃん」の赤い兜…