【小早川隆景】隆景を知る3つの逸話①「本能寺の変で貫いた信義」

小早川隆景九州の武将
小早川隆景

毛利元就の3男「小早川隆景」。

隆景は、家康とか、秀吉とか、信玄なんかと比べるとイマイチ知名度が下がりますが…決して実力の劣る大名ではありません。

 

でも、オヤジさん譲りの智謀と懐の深さは、官兵衛でさえ凌ぐところ。

また、隆景は武勇にも秀でていて、超カッコいいんです。

 

そんな小早川隆景のエピソードを、今回から3回に分けてお送りします。

そして、今回は「小早川隆景と本能寺の変」について。

 

カンタンに書いてありますので、気軽に楽しんで下さいね。

 

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信長は死んだ・・・さて、どうするか?秀吉を…

秀吉が攻めて来たぞ~

1582年羽柴秀吉は織田信長の指図に従って、毛利を攻めて来ました。

 

秀吉軍は、3万の兵を引き連れて、岡山県の備中高松城を攻撃します。

いわゆる「備中高松城の戦い」って、ヤツですね。

 

 

でも、備中高松城はとてつもなくガードが堅くて…さすがの秀吉も苦戦していました。

 

そこで、黒田官兵衛の発案で「水攻め」を敢行。

川から水を引いて、備中高松城の周りは湖状態。

ありゃ~、困ったぞ…

 

すると毛利方は、これを機に織田との和睦を計ります。

水攻めもイヤですけれど、織田の軍隊は強大だからまともに戦ったら、タダじゃ済まないし…

 

 

そこで、秀吉を相手に相談します。

「広島県と鳥取県をあげますから、カンベンしてもらえませんか?」と。

これに対し、秀吉は大筋でOKします。

 

そして、毛利、羽柴の両軍は「6月6日で引き上げましょう」

という話で、決着しました。

(備中高松城の清水宗治は切腹ですが…)

 

本能寺の変が勃発

だけど…6月6日なんですよね。

この日付って、ちょっと微妙。

 

6月2日は『本能寺の変』が起こっています。

 

 

本能寺の変で信長は死んじゃってますから、織田方にとってはダメージが大きい。

ヘタしたら、織田グループがバラバラになってしまうかも知れない…

 

秀吉は事の終息を計るために、1秒でも早く京都に駆け付けたい。

(中国大返し)

 

もしそうなら、毛利としては逆転のチャンスですよね?

焦る秀吉との和睦をチャラにして、もう一度攻撃を加えれば、尻尾を巻いて逃げて行くかもかも知れないし…

 

 

この時、秀吉は信長の死を隠して和睦に臨んだ…とか

信長が死んだことを正直に全部話した…とか、

毛利が本能寺の変を知ったのは、和睦の直後だった、…とか

いろんな説があります。

 

ただ、いずれにしても秀吉はピンチで、毛利はチャンス。

 

そこで毛利が、秀吉のピンチにつけこんでも良いんです。

戦国時代ですから。

 

 

しかし、毛利はそれをしない…

そして、秀吉は超特急で京都に向かって行きました。(中国大返し200km)

 

どうして??

絶好のチャンスなのに!!

どうして、叩かなないの?!

 

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毛利は信義の武家だから…

勝利よりも大事なこと

備中高松城の戦いが収束する際には、毛利家中でも様々に議論されました。

毛利+吉川+小早川

 

で、多くの意見としては「今すぐ、秀吉に追い討ちをかけるべし」でした。

当然ですよね?

 

この時ばかりは、秀吉にとって毛利なんかどうでもよいハズで、そんなヤツに頭を下げるなんて癪じゃないですか!

 

そして「やられたらやり返す」

これは、侍の鉄則です。

これが出来なきゃ、男じゃない。

 

 

しかし、小早川隆景は「秀吉を追うな」と諭します。

どうして、なのさ??

 

「…確かに、このタイミングで秀吉の背後を襲えば、大きなダメージを与えられるだろう。

しかし、毛利は信義を立てて、約束は必ず守る家なんだ。

これが、すごい大事。

一度結んだ和議は、それ相当の理由がないと破っちゃいけない。

戦で勝っても『毛利は信用できない』と思われたら敵はもちろん、諸大名、はたまた家臣からも信じてもらえない。

それじゃ、どんなに国をデカくしても意味ないし、自分たちも気まずいでしょ?」

 

また、こうも言いました。

 

信長がいなくなっても、織田の脅威は衰えないだろう…秀吉がいるからだ。

信長亡き後、天下を獲るのは秀吉だろう。

秀吉はバカじゃないから、和議を結ぶにあたって『毛利にバレてる?』ぐらいの考えはあるよ。

そこで、オレたちがすんなり京都に帰してやれば、恩に着るんだって。

今は秀吉に貸しを作っておけば、長い目でみれば毛利も安心。

しかし、ここで秀吉を後ろから突いたなら…倍になって帰って来るぞ~」

 

 

結局、毛利での会議は、隆景の意見が採択されました。

表面上の勝ち負けに惑わされないで、大局を見据えた決断。

 

これは、隆景の判断力も素晴らしいと思いますが、素直に理解を示した毛利軍団も素敵だなぁと、思います。

 

智恵者の采配

さて、備中高松城でケリをつけた秀吉は、急いで京都に向かおうとしますが…

そこへ、毛利からのメッセージが届きました。

「和議を結んだ考えは変わりません、、信長殿の件はご愁傷様です、、」と。

 

すると、秀吉は心から感服します。

秀吉は『人たらし』の名人として有名ですが…この時ばかりは、隆景に一本取られました。

 

 

自らに不利であっても、最後まで筋を通した隆景。

そんな隆景に、思いっきりハートを鷲づかみにされた秀吉。

(秀吉は義理とか、誇りとか、誠実さに命を掛けています)

 

これ以降、秀吉は小早川隆景という男をメチャクチャ重んじ、毛利家も秀吉の下で大国を保ちながら、繁栄します。

 

元就が認めた真の智

哲人武将、毛利元就は3男坊の隆景を「智恵者」と称しています。

 

それは、計算が早いとか、知識が豊富とかそんな薄っぺらい物じゃなくて、もっと深みにある智恵のこと。

元就自身も「知識だけの学者は使い物にならん」として、軽薄な知識人は重用しませんでした。

 

 

この当時、激烈に頭の良い武将に黒田官兵衛がいます。

 

しかし、そんな官兵衛でさえも、隆景から見たら「少し、軽いかなぁ?」

と思われていた様子。

頭の回転速度は、官兵衛の方が優れているんですけど。

 

そして、官兵衛は官兵衛で、隆景の事を密かに尊敬していた様子…

小早川隆景とは、そういう武将でした。

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