東山文化とは、北山文化の次に興った室町時代のムーブメント。
室町時代にはいって、初めて武士が発信した文化が北山文化なんですが…東山文化は、その北山文化を基調としながら更に洗練され、日本人の暮らしによりフィットした文化です。
そして、東山文化のシンボルと言えば…やっぱ「銀閣寺」ですよね。
あのシブくてカッコいい佇まい、最高!
その他に、東山文化では侘茶、花道、雪州の水墨画、枯山水のお庭など「これぞニッポン」的な文化が花開らきます。
北山で始まった武士の文化は時間を経て熟成し、東山でさらに日本人好みな風味に仕上がりました。
今日は、そんな東山文化についてお送りします。
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銀閣寺
銀閣寺は、東山文化を象徴する建造物です。
8代目将軍の足利義政が建てました。
銀閣寺の前に、北山文化の金閣寺っていう建物がありますね。
銀閣寺の創建は1490年で、金閣寺は1397年。
大体、90年ぐらいの時代差があります。
この間に室町文化の一発目である北山文化は、東山文化へと変化していきます。
銀閣寺は見ての通り、地味な印象。
金閣寺みたいにゴージャスじゃない。
でも、そこが良いんです。
シブくって、味があって、日本人の心にスッと溶け込む感性を持っています。
本当は、幕府にお金が無くて貼り付けるはずの銀が買えなかった…という事情がありました。
でも、それはそれで、返って良かったかも知れません。
シルバー仕上げじゃない、素のままの銀閣寺に感動した人は、日本中に何百万人もいるでしょうから。
お金が無いっていうのは、銀閣寺の特徴でもあるんですが、これは他の東山文化にも言えることです。
でも、それって悪い事ばかりじゃなかった。
お金が無いから、生活に根ざした文化が発展し、安くても良い物が作れるという見本を示したので、幅広い層に東山文化は広がります。
例えば、銀閣寺の書院造は今日の和風住宅の基礎となりました。
書院造のお部屋は今でも健在ですが、「ウチは寝殿造です…」って人はあまりいませんよね。
また、この時代になると幕府の権威も落ちます。
すると、京都にいた文化人が地方に逃げだし、行った先で文化を広めるという効果もありました。
鹿児島県に儒学が広まったり、山口県に雪舟が来たり、栃木県の足利学校だったり…
いろんな形で、文化や芸術が伝わります。
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水墨画
水墨画は日本でも以前から描かれていて、北山文化でもかなり盛り上がっていました。
しかし、東山文化の時代にはいるとさらに研究が進んで、完成の域に達します。
これまでの水墨画は、中国の技法に大きく影響されていました。
しかし、それを卒業して「日本オリジナル」を確立したのが、かの有名な「雪舟」。
神様雪舟!日本の宝です。
で、これがまた東山文化のムードに合うんですよね~。
そしてさらに、東山文化の絵画は雪舟だけではない。
「狩野派」ですよ、狩野派!
水墨画の技術を大和絵に取り入れて、新しい絵画の世界を切り開いたのが狩野正信・元信親子。
狩野派の絵は、日本人なら一度は目にしています。(社会科の教科書とか)
筋肉ムキムキの唐獅子図を見れば「あ~、これだ!」と、すぐ分かりますよ。
能
能も北山文化の時代からやっていました。
でも、東山文化のでは一般の人にまで愛好家を広めます。
もともと、大衆の芸能だった田楽とか猿楽を北山文化で芸術の域に高め、東山になると芸術化した能が村落や町に降りてきました。
つまり、お百姓さんや、町人が能を演じるんです。
「でもそれって、素人演劇じゃね?」って、思うでしょ?
ところがところが…ものすごい完成度で、マニアとか専門家の人が見てビビったぐらい。
このように一般の人まで、ハイレベルな芸術を堪能したのも東山文化の特徴。
ただ、ここまで突き詰めて能を演じるのは、ストイックな人とかセンスのある人たち。
そこで全員参加型で楽しむ芸能として、盆踊りとか念仏踊りなどが流行りました。
茶道・花道
現代人にも親しまれてる、茶道や花道も東山文化から生まれました。
もちろんお花を生けたり、お茶を飲むことは以前からやっていました。
しかし、これらを芸術の域の高めたり、作法のスタイルを確立させたのはこの時代です。
お花やお茶は仏教文化と関わりが深いし、東山文化を支えた役者としての存在感は大きい。
生け花の形を成立させた池坊専慶の伝統は続いていて、池坊の流派として今でも普通に生け花教室とかやってます。
ホームページ見ると、池坊の歴史とか詳しい事が書いてあって面白いです。
まとめ
東山文化→銀閣寺、足利義政、室町時代後半、シブい、仏教的。