かつては会津地方を席巻し、戦国期に飛躍を遂げた蘆名氏。
ところが、次第に衰退し始めて18代目蘆名義弘の代になるともう風前の灯火。
そして、伊達政宗にトドメをさされてTHE END。
でも、義弘は最後まで良く頑張りました。
全力で戦っています。
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蘆名義広(あしなよしひろ)
歴史ある名門一族「蘆名家」。
(戦国マニアの中ではぼちぼち知られた一族です)
そして戦国時代の末期に、蘆名の運命を一身に背負って登場したのが蘆名義広。
とは言うものの…この義広の代で蘆名家は滅亡しちゃいます。
伊達政宗に粉砕されてしまったので。
義広は頑張ったのですが相手が悪かったかも知れません。
(義広、当時まだ中学生ぐらいの若さ)
ただ蘆名家は消えて無くなりましたが、義広はその後も生き続け角館の街(秋田県)には今でも彼の生きた証を残しています。(角館の町並み等→義広がプロデュースしました)
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摺上原の戦い 政宗 vs 義広
1589年、蘆名義広とあの伊達政宗の勢力が激突。
摺上原(すりあげはら)の戦いです。(磐梯山の麓)
この合戦は義広の代表的な戦ですね。
このとき義広は、なんと若干14歳。
まだ中学生…。
今の時代だったら「危ないから止めなさい」と言われますね、絶対に。
だけど、義広はこの戦いに挑んだ。
本当に挑みます。
武将ですから。
伊達軍23000と蘆名軍16000がぶつかる大戦。
出だしは好調でした。
伊達をかなり追い詰めた戦いを展開します。
しかし、徐々に戦況がかわり蘆名の勢いにも陰りが訪れました。
そして、蘆名の勢力が伊達に押されだして崩れかけそうな時、蘆名義広は家臣400騎を引き連れ…政宗めがけ本陣に殴り込み!!
いい根性してますね。
これぞ武将。
敵を恐れぬ若武者、義広。
ところが…軽く蹴散らされました。
(仕方ないです、経験があまりないですから…)
逃げる義広。
そして、蘆名は完敗。
義広はいったん黒川城(今の若松城)に逃げ込みますが…政宗の追い込みを恐れて、さらに逃げます。
城を捨て実家のある佐竹の領域(常陸国)まで走ります。
(かなり遠いですよ、フルマラソン2回分ぐらい)
この戦で蘆名家は大敗を喫し、事実上の滅亡をします。
崩壊はその前から始まってはいましたけれど、やっぱり、負けたら悔しいでしょうね。。
ただ、負けて粉々になってしまったけれど、義広自身はよくやりました。
ハイパー武将の政宗が相手ですからね、負けても仕方がないです。
名門蘆名家、盛氏で最盛期を迎える
蘆名家って、ちょっとマニアックな武将一族なので、耳慣れない方も多いと思います。
そこで、蘆名の歴史を超ざっくりお話します。
蘆名家はもともとは桓武「平氏」の流れを汲む家系です。
平氏ですからね、ブランド力ありますね〜。
いかにも「名門」って感じするじゃないですか。
さて、一番初めの蘆名家は神奈川県(相模国)にいました。
平安時代の頃です。
それが、時代を経てそのまま神奈川に残るグループと滋賀県(近江国)に流れるグループと福島県(会津)に流れるグループとに別れました。
蘆名義広は会津の方の一族です。
会津にやって来た蘆名家は戦国時代には入り「蘆名盛氏」(もりうじ)の代で最盛期をむかえます。
それはかなりの勢力でした。
奥州では蘆名か、伊達かって言われるくらいでしたから。
しかし、そんな蘆名家の内情は家臣の反発や跡継ぎ問題(息子が早く死んだ)でグラグラ揺れていました。
かなりの大揺れ、ぐら〜んぐら〜ん。
そんな心配な状況で蘆名の未来を託されたのが蘆名「義宏」。
蘆名の当主は代々「盛」の字を引き継いでいたのですが義宏には「盛」が無い。
(義宏は養子なんです)
つまり、もう半分終わっている。
抜け殻の蘆名。
思い出の蘆名。
名前だけがかろうじて残っている。
そして、1589年の摺上原の戦い。
(伊達VS蘆名)
この戦に勝てば蘆名の新しい時代が拓けてくる
と思いきや、政宗にトドメを刺され、蘆名は滅亡。
粉々に砕けました…。
ただ、義宏はその後も生きのびる事が出来たので、秋田県の角館に1万6千石の所領を得る事ができました。
そして、義宏は「義勝」(よしかつ)と名乗り蘆名の伝統を復活させようとします。
ところが、ところが…後を継いでくれるはずの息子たちが次々と死去。
THE END
これにて名門蘆名は影も形の無くなりました。
「蘆名義広」誕生
蘆名義広は、もともと蘆名の人間ではありませんでした。
佐竹義重(常陸国、茨城県)の次男です。
それが蘆名家の養子になっていきます。
その当時、蘆名家には跡継ぎがいなくて「誰か出来るヤツいないかー」って探して来たのが、佐竹の次男でした。
対立候補として上がったのは伊達小次郎。
(どちらも蘆名の人間ではない)
そして、この2者で争ったのです。
もちろん、すんなり決まるはずが無く佐竹派(義宏)と伊達(小次郎)と別れて対決です。
そうして、なんだかんだで…次の当主は義広に決定。
これと同時に義広は蘆名の娘さんと結婚します。
当時、義宏は12歳(!)。
娘さんは養女。
ついでに蘆名の親父さんも養子。
当然、義広も養子になっていきます。
なんか、ムチャクチャですね。
養子を連投しまくって…。
野球でバッターボックスに入る打者が代打ばっかりだったら「なんじゃこりゃ?」って思いますよね。
こんなんで良いのかしら??
あ、そうそう…この時始めて、『蘆名義宏』という人物がこの世に誕生します。
ソレ以前は「白河義広」の名前で出ていました。
…え?佐竹じゃないの?
そうなんです、ちょっと変なんです。
蘆名に来る前は、白河で養子をやっていましたんです。
その白河の前でやっと、佐竹に辿りつく。
めんどくさ、、、
佐竹→白河→蘆名。
そんな感じで、ギリギリの線をたどって行って
ようやく、蘆名家は「義広」という跡継ぎをゲットすることに成功しました。
角館で第二の人生
消滅したはずの大名蘆名家なんですが…摺上原の戦いで政宗にやられた後、実は一瞬だけ復活しています。
ホントに一瞬だけ。
義広は政宗にやられた後、豊臣秀吉が土地をくれたんです。
佐竹の兄さんの横っちょに。
そして「蘆名を名乗っていいよ」と、言ってくれたんです。
でも、すぐに徳川家康の時代になってしまったので、領地は没収となりました。
家康がくれた土地じゃないんでね。
その後、義広は佐竹の兄さんと一緒に秋田県(久保田藩)にすっ飛ばされます。
義広改め、義勝。角館で才能発揮、みちのくの小京都
でも、ここからが義広改め「義勝」(←名前変えました、よしかつ)の本領発揮です。
秋田にやって来た義勝は角館(秋田県の角館です)に赴任します。
そこで、古城山を中心とした角館の町をリニューアルしました。
…っていうか、古城山の周辺は町の造りがイマイチで、いづれ誰かが手直ししないといけない所でした。
そこで、義勝の登場です。
すると、角館の町は見違えるほど素敵になりました。
義重って都市デザインのセンスがあったんですねぇ。
武将より、こっちの方が合ってるんじゃない?
最新のノウハウを取り入れ、交通アクセスの向上、ハイレベルな衛生管理、そして、美しくて合理的な町並みを実現しました。
義重の造った角館の町は「みちのくの小京都」と呼ばれ多くの人に愛され続けています。
そして、その姿は現代の時代でも、昔のままの情緒を色濃く残しています。