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「流れ公方」からカムバックした将軍
室町10代目の将軍は「流れ公方」と呼ばれた足利義稙(よしたね)。
義稙は将軍としての気概は高かったんですが、家臣や大名を強力に統率出来るほどの力はありませんでした。
(幕府の権力も落ちていましたし…)
そのためクーデター(明応の政変)により将軍職を追われたり家臣に幕府を私物化されたり。
(おかげで地方生活を余儀なくされました)
ただ、ヤル気はあるので一度は奪われた将軍の座を後から取り戻すぐらいの事はしてました。
明応の政変以降はは流浪生活をしたり、暗殺されかけたり、見聞を広めたりして苦労しながら人間性を磨きます。
人望もあり、義稙をに応援する人も結構いたんですが、時代の動乱が激し過ましたね。
目立った活躍のチャンスは得られませんでした。
生まれて来る時代が違ったかも知れません。
ちょっと、もったいなかったぁ、よしたね。
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足利義稙(あしかがよしたね) プロフィール
職業
室町10代目将軍。
将軍職には2度就いています。
① 24歳〜27歳
② 42歳〜57歳の時です。
※将軍を2回やる人はめったにいません。
生まれ
1466年 9月9日生まれ。
父親
足利義視(あしかがよしみ)。
8代将軍の足利義政(銀閣寺を作った人)の弟さん。
義視は、かつて兄さん(足利義政)に次期将軍を頼まれたが応仁の乱でもみ消しにされる(残念)。
でも、息子が将軍になってくれたのでリベンジを果たした、とも言えるでしょう。
自分は大御所みたいに君臨出来ましたから。
母親
日野良子。
京都の名門、日野家の娘さん。
ちなみに、良子さんの姉さんは日野富子。
(→日本三大悪女。うるさい、がめつい、高慢ちき)
義稙は富子の目の敵にされていました。
一応、親戚なんですけど。
明応の政変
義稙は明応の政変によって、将軍の座から引きずり下ろされます。
義稙は、前の将軍(足利義尚)の遺言に従って将軍になりますが、幕府内ではそれに納得しない人達がいました。 (富子など)
そこで反義稙派の連中は、義稙が戦で京都から離れている間にクーデターをおこします。
それは
義稙が留守中に勝手に将軍職をクビにして、
次期将軍(足利義澄)を新将軍を仮申請して、
義稙系の家臣に寝返り工作を行い、
義稙の陣を攻め、
義稙の有力家臣を切腹させて、
義稙を牢屋にぶち込む。
というのもです。
その後、義稙は島流しになる予定でしたが、脱獄して、流浪の生活に入ります。
それにしても、将軍を勝手に差し替えちゃうなんてスゴイ話ですね。
会社に帰ったら、自分の机が無くなっていたらショックですよ。
疎外感マックスです。
性格
けっこう勝ち気な性質、ハングリー精神あり。
暗殺者が襲って来ても蹴散らす位のパワーは持っている。
将軍職を干されていた時に、室町幕府の転覆を企んだりしていた。
一方では、どん底に落ちた経験や流転生活の苦労も知っているので
庶民感覚が分かり、フレンドリーな性格も持ち合わせている。
ただちょっと、、家出癖(?)があり周囲の人達を困らせる。
戦力
バリバリの戦国武将では無いのでよく分からないのですが、弱過ぎる武将よりはずっと強いでしょう。
必要であれば、自ら陣頭に立って普通に戦場でバトルしています。
先代の将軍(11代、足利義澄)と戦をした時はコテンパンにやっつけてました。
友達
義稙には子供の頃からの親友がいました。
烏丸冬光と阿野季綱という友達です。
身分の高い役人さんでした。
そして彼らは、幽閉から脱出した義稙をサポートして将軍に返り咲くまでずっと苦楽を共にしてきました。
…いくら友達でもそこまでは付き合いきれませんよね。
ヘタしたら、幕府に見つかって殺されてしまいます。
だから親友っていうか、戦友ですね、この2人は。
他にも不遇の義稙を支えた仲間は他にも数人居たといいますから、なかなかの人望ですよね、義稙と言う人は。
(中には「元将軍」の地位を利用しようと考えた人もいましたが…)
流れ公方
流れ公方と言うとかっこいいですが、要するに逃亡者、犯人です。
安穏としていられません。
そんな逃亡者義稙が潜伏したのは富山県(越中国)、福井県(越前国)、山口県(周防国) など。
それぞれの潜伏先で将軍復帰への道を模索します。
それは茨の道でもありました。
お世話になった潜伏先がどこでも「ウェルカム!」とは限りませんので。
13年間の辛い逃亡生活でした。
やっと将軍に復活したぞ〜!
長いさすらい生活の末、やっと復活のチャンスが巡ってきます。
室町幕府の家臣達がが仲間割れを起こしてグラグラして来たのです。
そこで義稙は有力大名(大内教興など)の協力を得て京都に攻め込んで、めでたく将軍の座を取り返しました。
やったぞ〜!!
しかし、それもつかの間。
今度は自分が家臣達ととギクシャクしてきます。
さらに、頼りにしていた大内教興は地元の周防国(山口県)に帰ってしまう。
(島根県の戦国大名の「尼子経久」が攻め入って来たから)
思い通りにいかない現実に打ちのめされて、モチベーションが下がります。
気がつけば、家臣においしいところを持って行かれ義殖は使い捨てにされる始末。
ああ、これも下克上。
ちなみに、義稙を踏み台に利用していったのは細川高国(たかくに)というお調子者でした。
将軍に返り咲いた所まではよかったのですが、その先が今一歩足りず、スッキリしません。
そして義稙は、再び京都を離れて行き、、流浪の公方へと。
(自分を裏切った細川高国をブチのめす事はしませんでした)
空席になった将軍の座には、12代目将軍足利義晴が就任することになりました。
これを推し進めたのは、かつて義殖を将軍職に導いた細川高国だったのです。
(しかし、そんな高国も後に家臣の裏切りに遭い自害に追い込まれる…)