1573年、足利義昭がついにが京都から追放されました。
追い出したのはもちろんあの男、織田信長です。
5年前に上洛したときは、仲良く二人三脚でやって来たんですけどね。
その後、互いに本性を剥き出した二人は反発し合い…場外に押し出されたのは義昭の方。
これぞ室町時代が崩れ落ちた決定的な瞬間。
また、これ以外にも時代の終焉を告げる出来事がいくつかありました。
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1573年室町幕府の滅亡
1568年、二人仲良く京都に上った足利義昭と織田信長。
しかし…
「私は将軍様よ」とふんぞり返る義昭。
これに対し「ショーグンちゃまは隅っこで蹴鞠でもやってなさい」と相手にしない信長。
こんな二人が、いつまでも上手く行くはずがありません。
副将軍だの管領だのと言って気を引こうとする義昭ですが、信長は見向きもしない。
「何?その上から目線は?今さらそんなの貰ってもうれしく無いんですけど…」
これでは将軍の面目は丸潰れ。
どっちが、飼い主か分からない状態。
足利義昭は将軍の権威復活のため、くそ生意気な信長を討て!と周囲の大名に持ち掛けます。
第一次信長包囲網です。
義昭が築き上げた執念の包囲網は、信長を相当追い詰めました。
しかし、信長の粘り強さに勝てず、第一次包囲網は崩れ去ります。
そんなことをしてタダですむワケも無く、最後は義昭自身が信長軍に敗れ京都から逃れます。
京都から逃げた義昭は各地を転々とし、ついには広島県の方まで行ってしまいました。
これにて、室町幕府の終了です。
厳密に言うと義昭はまだ将軍を辞めていないし、将軍的な事務仕事(任命の書状作成など)は継続していました。
でも、ここまで落ちるとかつて権勢をふるった将軍とは違いますよね。
時代は変わったのです。
もう、後戻りはしない。
ここで室町幕府は、事実上の滅亡を迎えます。
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武田信玄の死
第一次信長包囲網のエースであった武田信玄。
三方ヶ原の戦いでは、徳川家康をボコボコにして武田の怖さを見せつけてやります。
しかし、その直信玄は後胃がん(もしくは結核?)で死亡。
それは、1573年の事でした。
今でも「もし信玄が生きていたら、きっと信長は…」
といろんな妄想を掻き立てる信玄の存在感は、当時の信長にはかなりのプレッシャーだった事でしょう。
しかし、信玄は自分から死んでくれたので、かえって信長は最高のエールを得たようなもの。
もし、信玄が生きていたなら、室町時代はもう少し続いたと思います。
信玄の死後信長包囲網はつき崩れ、次の標的になったのは…黒幕の義昭でありました。
浅井・朝倉も滅亡
足利義昭の追放後、信長の餌食になったのは朝倉義景と浅井長政。
浅井・朝倉の両家も信長包囲網の一翼を担っていました。
かつて姉川の戦いでは織田軍に敗れつつも、その後も信長を苦しめる浅井・朝倉。
そして信長は信玄と義昭の問題が片付いた後、改めてこの両家に襲い掛かります。
もう、余計な重荷がないので思う存分叩けるのです。
織田軍は浅井の小谷城、朝倉の一の谷城を一気に攻め落とします。
これも、1573年の事でした。
朝倉の越前国なんか、古き良き室町時代を伝える素敵な国だったのに…
これにて、終了。
あぁ、また一つ室町時代が消えてゆく。