北近江の名将、浅井長政。
長政は15歳の若さで宿敵、六角義賢を破り浅井家に独立をもたらした期待のヒーロー。
そして、ライバルである尾張の織田信長と同盟を結び…
信長の妹「お市」と結婚して、二人の間には茶々、初、江という娘たちが誕生しました。
浅井家は長政の代で途絶えますが…子孫はその後も健在で、現在では世界的に有名な「あの方」の家系と結びついています。
その他、浅井長政のイケメン説などについてもお送りしますね。
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浅井長政:北近江の名将
浅井長政(あざい)って言うと、何とな~く織田信長の引き立て役、みたいなイメージがあるかも知れませんね?
結果的には信長に負けて、滅亡しちゃいましたし…。
でも、そこに至るまでは信長だって、相当苦労しているんです。
長政には、そう簡単に勝たせてもらえませんでした。
(金ヶ崎の戦いや姉川の戦いでは、苦戦しています)
信長は、一乗谷城の戦い(1573年)で浅井に勝利し、長政の頭蓋骨を使って「どくろ杯」なる杯を作って戦勝を祝います。
これは信長の頭がおかしいのではなく、敵将への敬意と勝利の喜びを最上級の形で表しているからだそうです。(現代人のは意味不明ですね)
それだけ、浅井長政は手強く尊敬に値する武将だと言う事でした。
当時、長政は信長にとってライバル的な存在。
決して、咬ませ犬のような、生易しい相手ではありません。
長政は、1560年に初陣を勝利で飾り六角氏の支配を退けました。
そして、見事戦国大名としての地位を確立します。(野良田の合戦)
この時、長政は15歳という若さ。
家臣達は浅井家のニューヒーローの登場に狂喜乱舞して、オヤジさん(浅井久政)に早く隠居するように迫ります。(立場の無いオヤジ…)
1560年と言えば、信長が桶狭間の戦いで今川義元を討つという快挙を成し遂げています。
面白いですね、奇しくも同じ年です。
長政の存在は、当時の信長にとっても非常に気になる所。
知勇兼ね備えた若武者が、自分のすぐ隣の国にいる。(コイツ手強そう…)
潰すべきか?一緒に手を組むべきか?
そこで信長は、必殺技とも呼べる極上のカードを切ってきます。
そうです!信長は長政の嫁にと…妹の「市」を差し出して来たのです。
戦国一の美少女、お市の方。
もちろん政略結婚ではあるんですが、さすがの長政も胸ときめいた事でしょう。
(夫婦仲も良かったそうです)
後に、長政と信長は敵味方に分かれて戦いますが…歴史の風向き次第では徳川の様に大きく成長したかも知れないし、または信長を倒していたかも知れない。
長政は、戦乱の嵐の中早い段階で姿を消しましたが…その当時の武将としては、かなりの注目株でした。
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浅井長政:小谷城
浅井氏は、長政のお爺ちゃんの代から、北近江(琵琶湖の北の方)に小谷城を構えています。
険しい山のてっぺんにあり、それは日本五大山城の一つに数えらるほど。
上からの眺めは最高ですが、登るのがかなり大変そうですね。
山の上にあるので、戦の時はかなり攻め辛いです。
堅牢な小谷城は姉川の戦い(1570年・VS信長)ではピンチに陥った浅井を救い、壊滅から防いでくれます。
ただ、この挫折が信長をムキにさせちゃった…。
秀吉を小谷城近くに貼り付けたり、周囲の道を封鎖したりして何年間も攻略を継続。
そして、小谷城の戦い(1573年)ではついに落城します。
信長は3万の軍を率いて小谷城を孤立させ、浅井を滅ぼしました。
しかし、浅井の女性たち(お市、茶々、初、江)は信長に返却され、以後織田で大事にされます。
男は命張って武将やってんだから死んでも仕方ないですが、女子供が道連れになるのは可哀相ですよね…。(とーちゃんは責任取って自害)
これも、小谷城でのドラマ。
その後、小谷城は浅井氏の滅亡と共には廃城となりました。
しかし、城跡は今でも保全されていて国の指定史跡となっています。
土塁や石垣はまだしっかり残っていますので、城跡マニアならかなり楽しめるスポットだと思いますよ。
ただ、山城なので時々クマが出るかも知れません…ご注意ください。
長政の妻「お市」
さっきもチラッと出ましたが、長政の奥さん「お市」について。
お市は織田信長の妹で、美形でチャキチャキした頭の良い女性でした。
信長も大変可愛がっていたようです。
(一回り年下の妹ですからね…死ぬほどかわいいでしょう)
で、17歳でライバルの武家である浅井家の嫁に行きます。
嫁と言っても、織田と浅井の同盟を結ぶための人質みたいなもの。
それは、1568年の事で丁度、信長が将軍を連れて上洛する頃ですね。
浅井家に来たお市さんは当初「織田から女スパイが忍び込んで来たぞ」
みたいな目で見られ、肩身に狭い思いをしたそうです。
まぁ、確かにスパイと目されても仕方がないんですが…
長政は、ナイスガイのジェントルマンですから「それはそれ、これはこれ」
として、お市を温かく迎え入れてくれます。
そして、夫婦仲も大変よく子供も沢山産んでいます。(茶々、初、江…)
しかし…信長が上洛した後、浅井と織田は敵対関係になり、戦で負けた旦那は小谷城で自害。
その後、市と娘たちは…織田家(織田信包・のぶかね:4番めの兄貴)に引き取られ幸せに暮らします。
そして、本能寺の変の後は、柴田勝家の所へ嫁に行きます。
秀吉の勧めで。
でも、勝家は賤ケ岳の戦い(1583年)で秀吉に敗れ自害。
勝家は「逃げれる人はみんな逃げろー」
って、言ったんですが…この時お市は勝家と共に最期を迎えます。
信長の妹なんで助かる見込みは十分あったのですが、今回は旦那と運命を共にしたんですね。
お市と勝家の結婚生活は、1年ぐらいしかありませんでしたが、二人仲良くあの世に旅立ちました。
決して恋愛で結婚した二人ではないのですが…何がそうさせたのでしょうか?
愛情か?
浅井三姉妹
浅井長政の娘と言えば、茶々、初、江の三人娘。
厳密には側室の産んだ娘もいますが、一般的には長政の娘と言えば市が生んだこの三人を指します。
では、一人づつ紹介していきますね。
①茶々(ちゃちゃ)
三姉妹の長女、茶々。
成人した後は「淀殿」なんて呼ばれていますね。
茶々は1569年生まれで、賤ケ岳の戦い(1583年)で父母を失った後は、安土城や聚楽第で暮らしたと言われています。
そして、19歳の時に秀吉の側室になりました。
その頃の秀吉は、ほぼ天下を治めるくらいのステイタスを得ていたのですが、茶々から見ればしょせん「信長伯父さんの舎弟」。
一応、側室にはなってあげましたが、プライドが高いので他の側室はもとより正室の北政所ですら上から目線で見下します。
しかも、秀吉の子供「秀頼」まで産んでいますから、誰も逆らえない。
(ちなみに茶々は秀頼の前に「鶴松」と言う子を産み、これを喜んだ秀吉が「山城淀城」をプレゼンしたことから「淀君」と呼ばれるようになりました)
秀吉の死後は、さらに態度がデカくなります。
(ま、豊臣の後継ぎを産んでますから、当然かも知れません…)
さて、関ヶ原の戦いを迎える頃になると、近江系の血筋である茶々(淀君)は自分の息子(秀頼)を盾にとって、尾張系の北政所と対立してきます。
で、それぞれの勢力をバックアップするのが石田三成(→近江系:茶々派)であり…
徳川家康(→尾張系:北政所派)でありました。
そしてそして、この流れは1600年に東西の大名を率いて、巨大バトルを巻き起こします。
関ヶ原の戦いで負けを喫する茶々でありましたが、その後も相変わらず図太い。
一旦は政権を家康に預けるけど、秀頼が成人したら還してもらうつもりでいます。
しかし、家康にはそんな考えはこれっぽっちも無くて、双方の意見の相違はこの後、大坂の陣(1614,1615年)に発展します。
豊臣はこの戦に敗れ、茶々と秀頼は自害。
茶々は崩れ行く城内を駆けずり回り、立て籠もって戦う兵士を最後まで励ましたそうです。
(ウラー行け~!戦え~っ!と…)
ちなみに茶々(淀君)は日本三大悪女の一人として数えられています。
他二名は北条政子と日野富子。
彼女たちと並び称されるなんて…それは、ある意味名誉?な事でもあるのですが。
②初(はつ)
次女の初。
姉さんの茶々とは、1歳違いです。
初は秀吉の勧めで、18歳の時に京極高次と結婚しました。
京極と言えば近江のセレブ家系ですから、お家柄的にも文句なしです。
さて、初の旦那である京極高次なんですが、この人は関ヶ原の戦いでは東軍につきました。
(賢明な判断ですね…)
という事は、この時初と茶々は敵対になるわけです。
そして、大阪の陣でも敵味方に分かれて戦います。
茶々(淀君)とは元々仲の良い姉妹だったので、初は何とかよい形で和解出来ないかと奔走しました。
しかし、なかなか姉ちゃんが分かってくれない。
「何で、この私が尾張の田舎者に、ヘーコラしなきゃいけないのよ!」
「姉ちゃん…あんたって骨の髄まで武家の女なのね…」
(茶々には茶々の立場があるのです)
初は、浅井三姉妹の中で一番おだやかな性格の女性でした。
そして、三人の中で最も長生きします。
③江(ごう)
三女の江。
数年前の大河ドラマにもなりましたよね。
賛否の嵐が吹き荒れた「江~姫たちの戦国」。
僕は、30秒でドロップアウトしちゃいました。
江と言えば、ご存知「徳川家光の母」。
って事は、2代目将軍の徳川秀忠の嫁に行ったわけです。
しかし、そこに至るまでが紆余曲折があって、江ちゃんはなかなかの苦労人なんです。
江は、とりあえず12歳で秀吉の命で佐治一成と結婚しますが…
離婚させられ、次は秀吉の甥・豊臣秀勝と結婚します。
しかし、その秀勝が朝鮮出兵(文禄の役)で病死。
それから、徳川秀忠のところへやって来ました。
この時、江はすでに23歳になっています。
今どき23歳で結婚するのは早い方ですが、昔の23歳は少し劣化の進んだ中古車のような状態です。
ところが、ところが…江は奥さん稼業を頑張って千姫、家光、忠長などの二男五女をもうける大仕事を成し遂げました。
ちなみに、徳川将軍の正室の中で、将軍の生母になったのは江だけです。
秀忠は、ホントに良い嫁さんをもらいました。
ところで、秀忠は正式には側室がいません。
それはなぜかと言うと…江が怖かったから!!
秀忠は江の座布団だから、そんなヤツが側室を貰うなんて頭が高くて出来ないんですよ。
まぁ、家光をちゃんと生んでいる時点で、文句の付けようが無いんですが…。
(女嫌いと言う説もあります)
また、江は春日局と対立するぐらいの女ですから、胆力もハンパないっすね。
長政の子孫は?あの方!
浅井長政の命は茶々、初、江の三人娘に引き継がれ、その後どのように続いて行ったか?
つまり、長政の子孫は今どうしているかと言う話。
長政のご子孫は今でも、しっかり活躍してますよ。
とりあえず、茶々(淀殿)の息子である秀頼なんですが、これは大坂の陣で母親と一緒に自害して終了。
次女の初は、子供が産まれませんでした。
そして、江。
ここの子孫はスゴイですよ。
今でも、江の血脈は受け継がれ日本はもちろん、世界的なスーパースターになっています。
江は徳川の嫁になる前に、豊臣秀勝(秀吉の甥っ子)と結婚して完子(さだこ)という娘を産みます。
しかし、母親の江は後に徳川秀忠と結婚したので、完子は茶々(淀殿・江の姉ちゃん)に育てられます。
そして、完子は12歳で公家の名門九条家に嫁ぎました。(だんな:九条幸家)
完子は九条家で7人も子供を産み、以降長政の血脈は九条家の中で受け継がれました。
途中、徳川家光経由の長政系の子孫と合流しつつ、江戸時代を経て明治に突入。
そしてそして、浅井長政から数えて11代目の子孫に「九条節子(さだこ)」と言う女性が登場します。
そろそろ「アレかな?」って気づいたかも知れませんね…。
節子は「黒姫」と呼ばれるほど、健康的って言うかお転婆娘でした。
そんな、ギンギンに元気な節子さんが皇室の人の目に留まります。
「今度の皇太子はイマイチ体力が無いから、せめてお妃ぐらいは元気な人がいい…」
と言う事で(それだけじゃ無いですけど)節子は嘉仁親王の嫁さんに選ばれます。
嘉仁親王…すなわち大正天皇の事です。
で、大正天皇の子供は昭和天皇であり、昭和天皇の子供は平成天皇。
子孫はバッチリ生き残っていますね!
長政も喜んでいる事でしょう。
子孫は天皇やってるのか~、って。
浅井家の家紋
浅井家の家紋は「三つ盛亀甲」と言って、三つの六角形を三角状に組み合わせた形をしています。
この家紋は「亀甲」ってところがミソです。
亀甲ですから亀の甲羅を表しているんですが、この場合の亀は北方を守る神様だとされています。
東西南北の方向には、それぞれのエリアを守護する神様がいて…北は玄武(亀)、南は鳳凰(鳥)、西は白虎(四つ足の動物)、東は龍(蛇など)が国や世界を守っています。
そこで、長政は北方を守る玄武を自任していた。
だから、三つ盛亀甲。
…と言うか、何か玄武とご縁のある人物だったのでしょうね。
(ま、この辺は自己申告の世界なので自由です。謙信=毘沙門天みたいなもの)
ちなみに、これら四っつの神様には個性が備わっていて…玄武(→調和をもたらす)、鳳凰(→楽しく元気)、白虎(→強いリーダー)、龍(→頭が良い)となっています。
自分のキャラクターに合わせて、亀、鳥、虎、龍などの神様的なグッズを持っていると何か力を与えてくれるかも知れません。
それが長政の場合、三つ盛亀甲の家紋なのでした。
長政の身長&イケメン説
歴史物語の中では、イケメン的に取り上げられる浅井長政。
ただ、実際は良く分りませんね。
肖像画を見て想像するしかない。
好みの問題もあるし。
現代女性からのウケは良さそうです。
奥さんを大事にしているところなどが。
性格的にはイケメンの範疇かも知れません。
昔は体のデカい男性=イケメン!みたいな風潮があったらしく、その点で言ったら長政は十分合格ですね。
身長は180センチで、肖像画を見る限りでは横幅もガッチリありそうです。
戦国時代の平均身長って現代の人より10センチぐらい低いですから、180センチもあったらプロレスラーみたいに見えたでしょうね。
あと、お顔の方は飛びぬけてカッコよかったら、それはそれでちゃんと書いてあるものです。
他にどの武将がイケメンだったか度忘れしちゃいましたが、どう見てもカッコいい人はそういう記述が残っています。
でも、秀吉や毛利元就なんかよりはずっと良いんじゃないかな?(主観ですけど)
あ、思い出した!
長宗我部元親はイケメンだったようです。(若い頃)
「姫若子」と呼ばれていたのでジャニーズ系ですよ、きっと。
肖像画では、ひげボーボーでそんな風に見えませんが…。
信長との同盟
15歳の若さで六角義賢を破り、戦国大名の地位を確立した浅井長政。
一方、駿河の今川を一撃で仕留めさらに、美濃国まで勢力を広げた織田信長。
長政と信長は互いに認める実力者同士。
すなわち、敵対したくない相手…と言う事になります。
そこで浅井と織田は同盟を組むに至りますが、実は水面下ではかなりギクシャクしていました。
ただ、長政と信長の本人同士は固く信頼していて、金ヶ崎に戦い(1570年)で浅井に襲撃された信長は「まさか!ウソだろ!そんな事ない!」と一瞬、事態を飲み込めないほどでした。
おそらく、長政も織田を攻撃する事には相当躊躇したでしょう。
しかし、織田と同盟に関して、浅井の家臣の間ではかなり意見が分かれていた様子。
と言うのは、浅井は越前の朝倉と苦楽を共にししてきた盟友関係。
ところが、朝倉と織田は長年の犬猿の仲。
越前に居た頃、織田と朝倉はライバル関係でしたし、織田が尾張に来てからも美濃国を巡って朝倉と対立していました。
織田と朝倉が同盟を組むことは、確かにメリットがある。
南近江の六角氏は、織田と浅井の共通の敵。
でも…また織田と朝倉がドンパチ始めたらどっちの味方すんだよ?って話。
泥沼の三角関係になっちゃうじゃないか!
でもでも…我らがニューヒーロー長政様が織田と同盟組むって言うし、織田は朝倉とは戦いませんって言ってるし、向こうは低姿勢で「お願いします」っていってるし…。
悩むなー、信用していいのかなぁ?
それで結局は、浅井と織田は同盟を結ぶに至りますが…
信長が上洛を果たすと、やっぱり始まっちゃいましたよ。
将軍を担いだ信長は「おい、朝倉!おまえ、京都に上洛してこいよ」
とやります。
しかし朝倉は「ふざけんな、エラソーに。ぽっと出の成り上がり者が突然何をぬかすか!」
容易に従いません。
ただ、上洛の要請って一応は将軍の命令でもあるんで、言う事を聞かないと逆賊扱いにされてしまう…。
そして信長は、これを機に越前に出兵開始。
ああ~、やっぱ始まっちゃったよ。
この時、長政は織田に付くか、朝倉に付くか悩んだと思います。
朝倉との関係は尊重したいけど、時代は変わりつつある。
織田とは同盟を組んでいるけど、家臣たちは理解してくれない。
かと言って織田と対決したら、タダでは済まないだろう…。
そして、浅井家家中では…「打倒、信長!」の気運が高まり、もう抑制が効かない状態。
ここで織田の味方に付いたら、家臣団がバラバラになってしまう。
そもそも、織田が朝倉を攻めた時点で約束違反だし、ここで信長を倒せば一発逆転かも?
で、ついに長政は出撃開始。
織田軍を金ヶ崎で挟み撃ちにして、叩きのめしてやりましたよ。(1570年金ヶ崎の戦い)
やりました、長政!お見事!
当然、これで織田との同盟はチャラになります。
(信長との個人的な関係は悪く無かったので、ちょっとモッタイナイ気もしますが)
その後、織田軍は巻き返しを図り、姉川の戦い(1570年)→小谷城の戦い(1573年)へと仕返しにやってきました。
復讐の鬼となって。
朝倉との関係
浅井と朝倉の関係は古く、応仁の乱(1467年)の時代にまで遡ります。
応仁の乱とは、9代目の足利将軍を誰に決めるか…で全国の大名を巻き込みパニックになった大戦のこと。
それは、諸大名が誰を将軍に推薦するか?という問題はもちろん、大名内でも家族、家臣で意見が別れ分裂や独立騒動にまで発展します。
そんなドタバタが、朝倉家や浅井家にも起こります。
朝倉は応仁の乱を切っ掛けに、主家の斯波氏の家督争いのどさくさにまぎれ、越前国の支配を強めた。
浅井は主家の京極氏の内部紛争を利用して、北近江の支配を進めました。
浅井も朝倉も自らの道を進むために主家を裏の切り、互いに協力関係を築き独立を保った、言わば戦友みたいな関係。
そんな付き合いが、長年に渡って続きます。
長政の時代に入ると、浅井が強くて朝倉がヘナチョコみたいな印象があるかも知れませんが、かつての朝倉家は名君がいて、メッチャ強い武将がいて、素晴らしい国づくりを治めた最先端の大名でした。
それでまた、朝倉義景だってトロくて戦の弱い大名なんですが決して悪い人じゃない。
信長なんかよりも、ずっと安心して付き合える盟友でした。
ちょっと都合が悪くなったからと言って、簡単に見捨てられない仲間だったのですね。
戦国時代が過熱しなければ両国の関係は健やかに続いたのでしょうけど、信長の登場でメチャクチャにされてしまいます。
両家の友情も時代の流れには逆らえませんでした。
辞世の句
武将って、たいがい辞世の句の一つや二つ?は持っているものなんですが、浅井長政にはそれが見当たりません。
辞世の句って言っても、死ぬ直前に一句捻り出すものじゃなくて予め用意してあるんです。
職業上、いつ死ぬか分からないですから前もって準備してあります。
ただ、長政の最後は小谷城の総攻撃を食らって(信長自ら乗り込んできた!)いるので、戦乱の嵐の中どこかへ失くしてしまったのかも知れませんね。