今回は、徳川家康のお話。
歴史マニアでない人のための、分かりやすい家康話を5つお送りします。
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝って江戸幕府を開いたのは、皆さん知っていると思いますので…もう少しだけ、突っ込んだ話を書きますね。
家康の奥さんの事とか、若い頃の話とか、死因の事など…
難しい話じゃないんで、サクッと読んで楽しんで下さい。
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今川で過ごした幼少期
幼い頃の徳川家康は、今川の人質として過ごしていました。
今川義元の監視下で。(お歯黒、お公家様風のあの人…)
家康の産まれた当時の松平家は、三河国(愛知県)にあります。
ただ、三河の松平家は、お隣の駿河国(静岡県)の今川氏の傘下にいたんですね。
そこで、松平家は今川家に恭順を示すために、人質を差し出します。
これが、幼い頃の徳川家康でした。(幼名・松平竹千代)
人質って言うと、ちょっと辛そうな感じがしますね。
過酷な状況で、不自由な暮らしみたいな…
でも、実際は美味しいものを沢山食べて、お勉強や武芸をしっかり学んで、しかも優しいおばあちゃんが一緒にいてくれました。
暮らしぶりそのものは、わりと幸せそうな感じ。
ただこれは、今川義元が家康を手なずけて、三河国の支配を強化するための策略。
家康を大事に育てて義元の事を父親みたいに慕わせ、今川一族の女性と結婚させちゃえば、松平を身内化出来ますからね。
しかし、家康の心には子供と言えども「俺は三河の武士だ」という気持ちがありました。
豊かな暮らしをさせてもらいながも、なかなか今川には染まりません。
そんなある日…家康は今川義元に許され、一時的に生まれ故郷の岡崎城へ帰る事が出来ました。
父親の墓参りをするために。
久しぶりに訪れた岡崎・・・懐かしいなぁ~
すると、松平の老家臣が「若殿…ちょっと、、内緒で見せたい物があるんです」と。
「ナニ?ナニ?」
家康は、岡崎城内にある蔵に案内されました。
内緒で見せてくれた蔵の中には、なんと…
ガッツリと食料や、金銭が貯め込んであるじゃないか!
え?三河は、貧乏な筈じゃないの!?
「ほら、見て下さいよ。これはねぇ『若が帰って来た時のために』って、みんなでセコセコ貯めたんです」
「ぬ、ぬ、ぬうぉ~何ですと~!?」
それを聞いた瞬間、家康の全身は涙と炎の塊となりました。
「みんな、待ってろよ~!俺が絶対に三河を取り戻してやるからな!」
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今川からの独立・桶狭間の戦い
織田信長が、大敵今川義元を一発逆転で破った、あの伝説の戦。
桶狭間の戦い。(1560年)
この時、家康はまだ今川の人質をやっていました。
それで、家康は関ヶ原の戦いで…最前線の先頭で戦っています。
家康の任務は織田軍に斬り込んで行って、攻撃を受けている大高城に食料を届けること。
そして、見事織田軍を突破して大高城に辿り着きます。
その後、家康は大高城を守りながら、今川義元の本隊の到着を待ちました。
ところが、義元の部隊がなかなかやって来ない…
(。´・ω・)ん?どうして?なんでかなぁ?
すると、とんでもない知らせが舞い込んできます。
「義元様が、討ち取られました!」
「ウソつけ、ばかやろー!」
「いや、マジっす!」
「…マジ?」
血の気がサーっと引く家康。
「もう、ダメだ俺。一巻の終わり…」
家康は、必死に守った大高城を出て、先祖の眠る大樹寺(だいじゅじ)へ行気き、切腹の覚悟を決めます。
すると、お寺の和尚さんが、こんな話をしてくれました。
「この世は、果てしない戦国の世界。
暴力と憎しみと欲望が渦巻いています。
しかし、心の中に百分の一ミリでも幸せを願う気持ちがあるなら…一心に祈りなさい。
それこそが、人生の突破口を開くでしょう」
切腹を思いとどまって、深い思いを巡らす家康。
するとさらに思いがけない、知らせが入りました!
戦に敗れた今川が、松平家の城である岡崎城を放棄&退却した、という情報。
「え?ホント?…ってことは、岡崎城にはもう今川いないって事か?よっしゃ頂き!」
こうして、家康は「棚からぼたもち」で、岡崎城を取り戻すことが出来ました。
その後、家康は今川から独立して、信長+家康時代を切り開いていきます。
武田信玄にボロ負け・三方ヶ原の戦い
織田信長が、京都に入り勢力を強めると…信長は将軍の足利義昭を無視して、勝手放題。
将軍家のプライドを気付付けられた義昭は、諸大名に呼び掛けて「打倒、信長!」を画策します。
いわゆる、信長包囲網ってヤツです。
で、このプロジェクトのボスキャラが武田信玄。
信玄は京都を目指し、じわじわ進行を始めました。
そして、その道すがらには家康の領地である、三河国や遠江国を通過します。
国主である家康は、敵軍を土足で上がらせるワケにはいきません。
「タダで通れると思うなよ!武田信玄!」
そして、浜松城で武田軍団を待ち構えていたら…
あれれ~、武田素通り?
「ちょっと待てや!信玄さんよ~。
オレたちはこの日のために気合入れて準備してんのに、ドタキャンは失礼でしょ!」
って事で、家康は武田を背後から襲います。
でも、これは武田の作戦。
家康は、武田の背後を襲ったつもりでしたが…実は、浜松城から引き釣り出されていた。
まんまとワナ引っかかった家康の軍は、ズタズタのボコボコの刑に…
これ以上ない恐怖を味わった家康は、泣きながら浜松城へ逃げ帰りました。
家康史上、最低最悪の惨敗。
しかし、三方ヶ原の経験は、家康に大きな教訓を与えます。
家康の名言に「上を見るな、身のほどを知れ」
と言うのがありますが、この言葉は三方ヶ原での大敗があってこその、リアルな名言。
家康ってああ見えて?本当は勇猛で、武芸も達者。
兵法はガッツリ学んでいるし、頭もいい。
かなりの猛者なんです。
しかし、そんな家康でもズタボコにする武田。
上には上がいる…
だから「身の程を知れ」
それは、人を見下したお説教のセリフじゃなくて、どん底の恐怖体験から学んだ真実の教訓なのでした。
ちなみに、関ヶ原の戦いで武田軍に突撃しようと馬に乗り上げた家康は
「それは、あまりにも無茶ですよ」と家臣に引きずり降ろされた、と言う話。
家康の妻・築山殿(瀬名姫)
家康は、16歳で築山殿と結婚します。
もちろん、政略結婚です。
築山殿は、今川一族(義元の姪)の娘さん。
で、この結婚は、家康を今川に取り込むための作戦です。
その当時の家康は、築山殿との結婚を断れません。
まだ、今川の人質の身でしたので…。
作戦でも、結婚生活が幸せならいいんですが…若干、ぎくしゃくムードの家康夫婦。
人質の家康に対して、上から目線の築山殿。
(実際に、築山殿の方が家柄が上&性格のキツ~イ姉さん女房!)
家康の母さんとも仲が悪いし。
この世で、高慢ちきな女性ほど扱いづらいものはありません。
で、桶狭間の戦いを機にして、家康が今川から織田に乗り換えるとさらに、御機嫌斜めな築山殿。
(家康が織田組に転向したおかげで、築山殿の父さんが今川で自害させられた…)
挙句の果てには「武田と裏でつながっている」と、疑いをかけられて処刑されちゃう。
なんとも、うまくいかない夫婦。
当初、その疑惑を追及したのは織田信長で「処刑しろ」ぐらいの事は言いました。
でも、本心はそこまで本気じゃなくて「マジ、気を付けてくれよ」的な意味で。
家康も、そのくらいの事は分かっています。
だから、厳重注意ぐらいで良かったのかも知れません。
とことが、ところが…築山殿は、浜松の遠州敷智郡富塚に呼び出されて・・・バサーッ。
後に、家康は豊臣秀吉の妹「朝日姫・44歳」と無理やりに、結婚させられますが…
こっちの方の嫁さんは、普通に大事にしています。
家康の趣味
徳川家康は、かなり多趣味な人でした。
有名なのは鷹狩、薬の調合、囲碁、猿楽、香道など。
また、武芸や学問も好きだったようです。
ただ、茶道はそれほどやらなかった模様。
いろいろ書いちゃましたけど、特にハマったのは鷹狩と薬の調合。
鷹狩は、暇さえあれば出動していました。
薬はこだわり過ぎて、医者の言う事を聞かないほど。
体調が悪くなって自分の薬で治そうとしたら、かえって悪化させて家臣に叱られる…など。
でも、ちゃんと効く薬も作ってましたよ。
一応、マニアの部類なんで。
おまけ・家康の死因
徳川家康の死因は、「鯛のてんぷらの喰い過ぎ」
僕は、中学の歴史の時間にそう習いました。
(テストには、出ませんでしたが)
皆さんの中にも、同じように学んだ人も多いかも知れませんね。
でも、現代の主流的な説は「胃がん」。
死ぬ間際の家康はだんだんと痩せていって、吐血や黒い便、そしてお腹に固いしこりがあったと伝わります。
確かに、がんっぽい感じ。
あと他に、家康の死亡論で話題に出るのが「すでに死んでた」説。
関ヶ原に戦いで、負傷して死んじゃって、その後は影武者が家康を演じてた…という話。
で、その後影武者が必要なくなると、毒入り天ぷらで始末( ゚Д゚)
ちなみに、鯛のてんぷらに関しては、現代の小麦粉の衣がサクッとした触感の天ぷらじゃなくて、さつま揚げみたいなやつとか、南蛮漬け的は食べ物だったという説があります。
どっちが本物か、良く分らないんですけど…
家康は健康マニアで、食事の節制や体調管理にはだいぶ気を使っていたようなので、てんぷらの食い過ぎってのは、あり得ない気がします。
贅沢するのが嫌いな人だったし。