今回は、小田原攻めの話です。
小田原攻めとは、豊臣秀吉の天下統一の総仕上げとなった北条との戦い。
もうこの頃になると、秀吉は余裕しゃくしゃくで、戦って言うよりも物見遊山。
ところが北条は、名家であるぶん秀吉の力を見誤ってしまいました。
「新参者のくせに、生意気だ」みたいな感じで。
おかげで、戦の舞台となった小田原城の中と外では、天国と地獄ような違い。
ここまで差があると、北条が不憫に思えて来る…
では、小田原攻めの流れを追ってみましょう。
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小田原攻め速攻説明
天下統一の壁
小田原攻めとは、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅亡させた戦のこと。
天下統一を目指す秀吉にとって、最後の壁となったのが小田原の北条でした。
コイツを何とか、支配下に置きたい。
それで、秀吉は北条に上洛を勧め豊臣の下にひざまけ…と、通達します。
でも北条にとって、秀吉などは新参者の成り上がり者。
「いくら関白になろうが、北条とは伝統が違うから大名として一緒にしないでくれ…」
秀吉の言う事など聞こうとしません。
しかし、秀吉としては、この北条を支配下に収めないと天下統一は成し得ない。
素直に従ってくれればそれでOKなんですが、北条にもプライドがあるんです。
一応上洛する切っ掛けも、あるにはありました。
群馬県の辺りで真田と領地のトラブルがあって、その相談をするために、秀吉に会いに行ってもよかったんです。
しかし、それには至らず…話がこじれていく北条と豊臣。
真田「秀吉さん、北条に領地をだまし取られて困っています」
秀吉「こりゃイカン。北条さんダメですよ、そんな事しちゃ」
北条「すみません、部下が勝手にやったことでご迷惑かけました」
秀吉「それじゃ、上洛してキチンと説明してください」
北条「でもこれって、お互い様なんですよ。なんで我々ばっかり、面倒くさい事しなきゃいけないんですか?」
秀吉「なぬ?いいから、こっちに来いよ!」
北条「じゃあ、上洛させるなら、人質の一人や二人はよこして下さいよ…」
秀吉「関白の言う事が聞けんのか!?」
北条「ぽっと出のカンパクのくせにっ!」
関白に従わない事は、反逆行為と同じ。
それは、北条も重々承知のところで、かくなる上は実力勝負で決着を付けようというところ。
こうして、北条は戦闘態勢に入りました。
いざ、小田原へ
それに対し、秀吉は力づくで北条を屈服させようとします。
惣無事令の違反を口実にして、20万の兵を挙げて小田原城を包囲。
ところで、小田原城はめっちゃ強固な城。
過去には、上杉も武田も弾き返しています。
だから「今回も、そのうち退散してくれるだろう」な~んて、北条は考えていました。
しかし、それは甘い考えだったんですね…
豊臣の軍は、ケタ違いのスケールで攻め立てます。
20万人ぐらいの兵を動員して、北条の支城を端から潰し、小田原城をグリングリンに包囲しました。
豊臣の怖さは、兵力や戦略だけの問題じゃ無くて…
小田原城を囲って、楽しそうに遊んでいやがる。
テーマパークみたいなのを作って。
(物産展を開催したり、歓楽街を作るなど、いろいろ)
これでは北条と豊臣では、戦っている次元が全然違います。
戦をしながら、余裕をかまして物見遊山とは…
「チクショウ、豊臣相手じゃ差があり過ぎるよ…」
こうして、北条は3カ月の籠城のすえ降伏。
当主の北条氏政は切腹し、早雲から続いた小田原北条氏はついに滅亡しました。
後から考えると、早くに上洛して秀吉にヘーコラしてれば、こんな事にはならなかったかも知れません。
でも、長年関東の番長をやってきた北条としては、譲れない部分があったんですね。
「関東は俺が守る」という自負は強かったようです。
領民にも、広く愛されていたし。
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その後の北条
小田原攻めを食らった北条は、大名家としては滅亡してしまいます。
いやぁ、実にもったいないですね。
北条は早雲以来、名君が続いたところだけあって、みんな良く戦いました。
唯一裏切ったのは、家老の松田憲秀(のりひで)のみ。
普通こんな負け戦だったら、謀反がバラバラ続出します。
徳川家康はそんな北条を、こう評していました。
「武田信玄は父を裏切り、勝頼には家臣がついて来なかった。
それに比べ北条は、裏切り者は松田憲秀ただ一人。
武田は手段を選ばなかったが、北条は恩義と名分を重んじた」
また豊臣秀吉も、北条のことは内心一目置いていました。
当主の北条氏政は、小田原攻めで自害させましたが、息子の氏直は高野山に追放した1年後には許され1万石を与えています。
そして、氏直の叔父である北条氏規(うじのり)も高野山に送致されますが、500石を与え冬の寒い時期には街に呼んだり、差し入れなどを欠かしませんでした。
秀吉は韮山城で果敢に戦う氏規に感動し、ファンになってしまったのです。
小田原攻めで大名としての北条は潰れてしまいましたが、氏直の家系はその後も継続して明治時代に入ると天皇の侍従を務めたそうな。