勘合貿易とは室町時代から始まった貿易。
一枚の木札を半分に割って、貿易する相手と一致できたら取引OKとする貿易です。
海を渡っての貿易は大変でしたが、ガッツリ儲かったらしいですよ…
日本と明(昔の中国)との貿易だったので、日明貿易とも言いますね。
今日は勘合貿易の交易品や、当時の貿易事情についてお送りします。
じゃ、始めます。
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勘合貿易とは
勘合貿易とは、室町時代に始まった貿易。(1404年~1459年)
3代目の将軍『足利義満』が始めました。
お金が欲しかったので…
当時の日本は、明(昔の中国)と正式な国交を結んでいませんでした。
でも、個人レベルでの日明の交流はあったんですね。
そして、貿易事業も行われていました。
ただ、国家同士がちゃんと連携してないから、海上や港周辺では国の目が行き届かない。
すると、悪い奴らが盛んに活動しちゃうんです。
海賊さんたちが…
これを倭寇と言います。(残念ながら、倭寇をやってた連中は日本人)
日明の人たちが交易をしてると、そこに倭寇が現れて強盗みたいな事をするんです。
これは、海の治安上非常に危険。
そこで、明の方からクレームが入るんです。
「なんなんだ、あの倭寇って連中は?あいつら日本人だろ。迷惑だから、そっちで取り締まってくれよな」と。
そこで、足利義満は倭寇の取り締まりを開始します。
倭寇を取り締まるって事は、海に行って船を出している。
そこで「だったら自分たちで貿易しちゃえば?せっかくここまで来てるんだから」
と言う流れになります。
ちゃんとした人が安全に貿易するなら、明としても安心です。
で、さらに…「そこまで交流があるんなら、国交を結んだ方がいいんじゃない?」
ってな感じで、日明の間で国交と貿易が正式に認められるようになります。
そして、貿易をする時は「勘合札」という二つに割った木の札を一致させて、お互いに正式な貿易相手であることを確認します。
だから、勘合貿易。
ただ、日明の貿易って日本にとってチョッピリ、屈辱。
と言うのは、日明の貿易は主導権は明の方にある。
明が上で、日本が下。
悔しいじゃないですか~。
日本が明に貢物を捧げてそのお返しを頂戴する、という立場。
でも…貿易ってやってみるとメッチャ儲かる(*’▽’)
当時の幕府は、財政難で苦しんでいたので「悔しいけど、やっぱお金!」
ってことで、貿易続行。
これが、紆余曲折を経ながら150年ぐらい続きます。
(結構、長く続きましたね)
勘合貿易は最初幕府主導の形で始めましたが、後に商人や大名が乗り出して来て、守護大名の大内氏などは相当おいしい思いをしました。
ちなみに、勘合貿易で倭寇の排除は行われましたが…根絶するまでは出来ませんでした。
一部の連中はしぶとく生き残り、しばしば勘合貿易の障害となります。
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勘合貿易の輸入品など
- 輸入品 → 明銭(永楽通宝)、絹製品、書物、織物、陶磁器…など
- 輸出品 → 硫黄、銅、金、刀、漆器、屏風…など
勘合貿易のの目玉は、何といっても銅です。
日本から明に銅を輸出すると、かなりいい値段で売れました。
また、明から輸入した絹糸を日本国内で販売すると、ボロ儲け!だったそうです。
明は日本の親分のつもりだったので、日本の輸出品を気前よく買ってくれました。
「明は金持ちだから、何でも買ってあげるよ…」みたいな格好をつけたかったんです。
おかげで、日本はウマい汁が吸えました。
運送費とか、現地の宿泊費用も明が持ってくれたし…
日朝貿易
日明の勘合貿易が活発になると、これと同じように日朝での貿易が始まります。
李氏朝鮮からも「倭寇が危険だから鎮圧してくれ」
という要求が入り…鎮圧→国交→貿易という、勘合貿易と同じパターンです。
で、日朝貿易の商品は
- 輸入品 → 主に木綿。それと朝鮮人参など。
- 輸出品 → 銅、硫黄、香木…など。
朝鮮の木綿は日本にたくさん輸入され、当時の衣服文化に大きな影響を与えました。
それまで、日本には木綿があまりなかったので。
日本から輸出した硫黄は、火薬の材料にしたそうです。
日本は火山国ですから硫黄はザクザク採れますからね…こちらも大変儲かりました。