戦場の表舞台にはあまり登場しませんが、裏で非常に大きな役割を担ったのが「斥候」(せ
っこう)とか「間者」(かんじゃ)と呼ばれる特殊工作員の人たち。
要するに「忍者」のことです。
武田信玄は、この忍者たちの任務を重要視していたようです。
信玄は無茶な突撃しないし、迷信も信じない代わりに、忍者の収集する情報やデータを頼りに戦に臨んでいました。
それも、かなりマニアックな感じで。
今回は、忍者と信玄の関わりについて書いてみたいと思います。
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三方ヶ原での話
1572年の三方ヶ原の戦い。
家康が信玄にズタボロにされて、うんこ漏らしたと言うあの戦です。
家康も果敢に戦ったのですが、信玄の策略に引っかかってコテンパンに叩かれました。
どん底の恐怖を味わった家康は、武田の強さが骨身に沁みます。
しかし、この戦は闘う前から、ある程度勝敗はついていました。
勝てる戦だから信玄は勝負に出て、それを知らずに飛び込んだ家康は痛い目に遭います。
そして、そんな両者の運命を分けたのは、忍者たちが収集した情報。
兵力そのものも、武田と徳川では差がありますが、その上で勝てる確信があるからこそ信玄は戦いました。
信玄は、三方ヶ原での戦闘を前にして、武田方のある忍者を敵陣の偵察に向かわせます。
すると「信玄様、今度の戦は楽勝ですから、すぐに戦闘開始しましょう!」
との報告。
しかし、信玄は「う~ん」と唸ったまま…
(納得してないんです)
次に、小山田弥三郎という家臣からの報告が入ります。
「信玄様、先ほど入った小山田の忍者からの情報によりますと、徳川方は○○から××にかけて布陣し、推定人数は△△人、後方の備えは・・・」
こちらは、より詳細なデータを挙げての報告でした。
ここで初めて、信玄は動き始めます。
「お~、小山田さん貴重な情報をありがとう!ご苦労様でした。
ボーナス弾むから期待しといてね…」
言ってる事は、ほとんど一緒。
細かいか、大雑把かの違いだけ。
だって、同じものを見て行ってるんですから、大体同じですよ。
でも信玄は、根拠が明らかでない情報は信じません。
それが、信玄のこだわり。
偵察が間違っていたら、作戦の計画が根本的に狂ってしまいますからね。
こうして信玄は、準備万端の状態で攻撃を開始しました。
それこそが、信玄と家康の勝敗を分けた理由です。
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全国に張り巡らす情報網
信玄の生きていた時代には『人国記』(じんこくき)という、日本全国の風習や人柄、文化について書かれて書物がありました。
信玄は、これが大の好物。
年がら年中、暇さえあれば人国記を読んでいました。
そしてこれと同時に、全国に派遣した偵察隊が集めて来る情報記録を照らし合わせて熟読。
これも、年がら年中です。
偵察係の人は、商人とか、医者とか、芸人などの仕事もかねて、全国津々浦々を見聞。
各国2~3人はノルマとして駐在し、土地の風土、道路の状況、大名の支持率、人口、産業などを徹底的にレポートします。
これが、どんどん信玄の手元に集まってくるワケです。
信玄が人国記マニアなのは、世間でも有名。
もちろんそれは、戦のための情報収集という意味もあるんですが、半分は趣味みたいなものですね。
好きでハマってる人には、敵いません。
集中力が違いますから。
人国記+生情報なので、無敵です…
武田の軍事力の強さの裏には、徹底した情報力があり、その情報を貪り吸収していったのが武田信玄という強烈な武将ですから…そりゃ、手強いハズですね。