1560年と言えば、桶狭間の戦いです。

中学校で習いましたね。

 

「天下に一番近い男」と言われた今川義元を、弱小大名の織田信長が倒した有名な戦。

この革命的な出来事は、中部の勢力地図を大きく塗り替える切っ掛けとなりました。

 

…とは言え、この時期はまだまだ室町時代のムードが色濃く漂っています。

今回は、そんな戦国時代に本格突入する直前の様子をお送りします。

 

桶狭間の戦い、義元の上洛作戦

1560年当時、織田信長はやっと尾張国を統一しただけの小さな大名。

でも、これだって若い信長にとっては念願の大偉業だったワケなんです。

 

それだけの大仕事を成し遂げながらも、ホッとする暇もなく今度は今川義元との対決。

 

義元は足利の血筋にあたる人。

そんな義元が衰退しかけた室町幕府のある京都を目指して、上洛を企んでいる。

 

義元は自分の国である駿河から京都までの国を、今川の勢力下に置こうとします。

これが実現すれば、幕府は義元のもの。

義元が将軍にならないとしても、幕府に対する影響はめっちゃデカいです。

 

そして、その道のりには「織田信長」とか言うちっちゃい大名が通せんぼしてます。

 

「信長か…、ちょっとメンドクサイ奴だけど、この際ペチャンコになってもらおう…」

義元は、信長をひねり潰して京都までの道のりを確保するつもりでした。

 

尾張を統一したばかりの信長に、次は今川という大津波が押し寄せて来た。

(絶体絶命のピンチ!)

 

勢力は全然比べ物になりません。

今川と織田では、5倍も10倍も違います。

普通に考えたら絶対に勝てるワケない…

しかも、時代の最先端を行く今川軍と弱くて有名な尾張兵との対決。

 

「これじゃ、さっさと降参しちゃった方が利口じゃない?」

 

ところが、信長は「大うつけ」でならした反骨武将。

思考回路がアブノーマルなんです。

 

織田家臣団の意見は「籠城戦で乗り切ろう」という意見ばかり。

籠城して条件よく和睦しましょう…と。

 

しかし、信長は「ふざけんな!そんな事してたら、後で勢力を吸い取られるだけだ」

と、徹底抗戦の覚悟でいます。

 

しかし…どうやって??

 

これには、信長も相当悩んだ事でしょう。

まともにやったら、踏み潰されるだけ。

籠城戦で凌いでも、次の勝算が読めない。

 

しかし、信長はつぶさに戦況を分析して、今川の唯一の弱点をみつけました。

「今川は一斉に織田の支城や砦に攻撃してる…って事は本隊が手薄になっているはずだ!」

 

この後は、テレビドラマでよく見るいつもの流れ。

 

絶好のチャンスを目がけて、織田の戦力を集中させる。

「狙うは今川義元の首一つ」。

 

で、本当にやっちゃましたね…。

 

もし、この時義元が実際に上洛したら(こっちのほうが数段現実的)それだけでも、もの凄いビッグニュースです。

しかし、信長はそれを上回る偉業を成し遂げたワケです。

世間の常識を、思いっきりひっくり返してしまいました…。

 

変な例えですが…大学の野球部とプロ野球の2軍の選手が試合をして、どのような結果が出たかと言うと、もちろんプロが勝つんですが…その点差は29対0!との事。

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実力差って残酷なほどの現実を見せてけてくれますが、信長の勇気はそれを見事打ち砕いた!

 

戦国の世にこれだけ無茶苦茶な漢が現れたワケですから、当然その後の時代に大きな旋風を巻き起こして行きます。

その象徴的な出来事の一発目が、桶狭間の戦い(1560年)なのでした。

 

 

徳川家康は何してた?

後に織田と徳川は長く同盟関係を結びますが、桶狭間の時点では敵対関係でした。

 

当時、家康(まだ松平元康です)は18歳の若武者。

そして、今川軍に参加して戦っています。

 

ところが、今川義元が討死したのを切っ掛けに、人質生活から解放され松平に帰って来ます。

そして、今川とお別れして織田と同盟を結ぶ。

ついでに、義元からもらった「元」の字を捨て、名前を「元康」から「家康」に変更。

 

う~ん、いいですね~。

時代の変化を感じさせます。

 

これ以降、家康は三河国統一へと邁進します。

逆に言うと、三河一国ですら統治出来ていなかった状態でしたね。

そんな時代でした。

 

 

信玄と謙信

信長の先輩格?にあたる武田信玄上杉謙信

 

この二人は、後に信長の存在を大いに脅かす事になります。

しかし、この当時ではまだ対立関係ではありませんね。

 

では、このお二方1560年当時何をしていたかと言うと…

それは「川中島の戦い」の真っ最中でした。

 

川中島は全部で5回戦いますが、1560年は4回戦目の直前の年です。

 

信玄も謙信も、今川義元が討たれたと聞いてきっと、びっくりしたでしょうね。

特に信玄は、驚くと同時にニンマリしたようです。

「義元がいなくなった…こりゃチャンス到来だ!」とばかりに。

 

 

長宗我部元親の初陣

オマケに長宗我部もいきます。

 

長宗我部は元親の代になって、四国を統一するまでに成長します。

でも、1560年当時は元親がやっと初陣に参加したところ。(土佐一国も平定してません)

元親は22歳で初参戦しますが、これは武将としては遅めのデビュー。

 

これは、元親がいかにも弱そうな武将であったためです。

ヘナヘナした若者で、槍の使い方は分かってないし、戦の事も良く知らない。

こんなヤツは厳しい戦場に出せません、ってな具合。

みんなから「姫若子」と言われ、コケにされていました。

 

ところが、父さん(国親)の急死により家督を継いで戦に出てみると…意外と強い!!

これ以降、元親の快進撃が始まります。

1560年は長宗我部にとっても記念すべき年なのでありました。

 

ついでに秀吉も

一応、秀吉の事にも触れておきます。

秀吉は1560年当時は、織田家臣になって5~6年経ったところ。

全くのペーペーじゃないんですけど、まだあまり出世してません。

足軽とか、食事係のマネージャーとか、土木工事の監督なんかをやっていました。

この翌年に、愛妻「ねね」さんと結婚。

自分のお城を始めて持つようになったのは、さらに13年後の事でした。

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