九州系戦国大名の歴史&簡単説明です。
目次をクリックして、お好きな大名に飛んで下さい。
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島津氏
島津氏は約700年もの長きに渡り、薩摩を統治し続けた一族。
鎌倉時代から明治維新までぶち抜きです。
室町時代になろうが、江戸時代が来ようが関係ナシ。
島津は島津。
源氏も平氏も過去の思い出。
豊臣だって、一発限りの打ち上げ花火。
ちょっとぐらい全国制覇したからって、デカい顔しないでください…。
日本には他にも、スゴいヤツはまだまだいるんです。
島津氏は鎌倉時代から薩摩(鹿児島西)、大隅(鹿児島東)、日向(宮崎)の守護大名をやっていました。(最初の頃は鎌倉に住んでましたね)
その間、守護職を取り上げられたり、分裂騒動が起こったり、パワーダウンしたりなどしていましたが、基本的に九州の下半分は代々島津が治めています。
そして、戦国時代に入ると大友氏や龍造寺といった大勢力と対決。
この時に活躍するのが、あの有名な島津4兄弟。
上から順番に①義久②義弘③歳久④家久
この4人は、ベタベタの仲良しってワケじゃないですけど、互いに尊重出来る間柄で最後まで分裂しないでやって来れました。
お陰で、九州の大名を殆どをやっつけて総ナメ状態。
その後は、秀吉や家康ともバトルする事になりますが、なんとか大名の体面を保ったまま決着することが出来ました。
巨大勢力にもヘーコラしないで、島津らしく最後までツッパリ抜きます。
そして、江戸時代を通り過ぎて明治維新に突入。
島津がいなかったら、この改革は成し得なかったでしょう。
薩摩+長州の薩長同盟です。
で、明治に入ってからは、薩摩系の総理大臣が多いこと多いこと…
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大友氏
大友氏は相模国(神奈川県)足柄郡大友郷にいた氏族でした。
それが、源頼朝の側近をしていたのを切っ掛けに、豊後国(大分県)の守護を務めるようになります。
三代目の大友頼泰(よりやす)の時には、元寇が襲ってきて大変だったようです。
ま、神風が吹いて何とかなりましたが…。
戦国時代に入ると大内氏が攻め込んで来て、滅亡の危機に陥ります。
しかし、大友親治(宗麟のひい爺さん)の代からだいぶ盛り返してきて、徐々に領地を拡大します。
(おっ、やっと宗麟が現れて来たぞ…)
宗麟が後を継ぐ直前には、宗麟の父さんがクーデターで殺される事件などがあって、家中はかなりドタバタした状況でした。(二階崩れの変)
しかし、これを宗麟がパニックを収集して、さらに勢力拡大をめざします。
(宗麟は島津にはボコにされますが、本当はかなりデキる人です)
大友氏が初めて九州に来たときは豊後一国しか持っていませんでしたが、宗麟に時代では筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後と6つもの国を守護していました。
九州の上半分は大友のものです、やったぜ!
ただ、勢いに乗っているのは大友だけではありません。
下の方から島津が侵攻してきます。
そして、九州の真ん中あたりで激突。
(耳川の戦い、1578年)
普通の相手なら大友だって負けませんよ、だけど今回の相手は島津なんだよねぇ…。
強すぎて、もうボッコボコにヤラレてしまった。
滅亡寸前に追い詰められた大友はその後、秀吉に助けをもとめます。
すなわち、これは豊臣の下に就くという意味でもあります。
最後の手段です。
その後の大友氏は…朝鮮出兵でヘマをして領地は没収となり、豊臣に仕える身になりました。
龍造寺氏
龍造寺氏は鎌倉時代の始まりから、肥前国佐嘉郡龍造寺(佐賀県)の地頭をやっていました。
室町時代に入ってからは小弐氏(しょうに)に従って、大内氏と戦っています。
そして、龍造寺隆信のひい爺さん(家兼)の代になると、親分の小弐氏よりもパワーアップしてしまったので警戒される。
それで、小弐家の家臣が龍造寺の家族をだまし討ちにして殺害。
こりゃヤバいと思った家兼は、ひ孫の隆信を連れて、筑後(福岡県)へ逃げる。
そして翌年、小弐家に復讐を果たし…隆信に家督を継がせてから死にます。
ちなみに、家兼は93歳で死去。
スゴイ爺さんですね。
この後、隆信は小弐氏を完全に滅ぼし、、肥前国をいただいて、筑後、筑前、豊前、肥後に乗り込んできます。
さすが「肥前の熊」と呼ばれるだけの事はあるっ?
この頃、大友氏は島津氏にボロ負けを喫し、北九州の覇者は大友から龍造寺に入れ替わりました。
そして、いつしか龍造寺も島津と対決します。
九州の頂上決戦ですね。
そしたら、もうボッコボコですよ。
コテンパンにやられちゃました…龍造寺が!
沖田畷(おきたなわて)という泥沼に引きすり込まれて、袋叩きを食らいます。
オマケに、
主君の龍造寺隆信の首まで討ち取られる始末。
その後、龍造寺は島津に臣従するようになりました。
ちなみに、隆信亡き後の龍造寺は重臣の鍋島直茂が仕切りましうたが、消して悪い様にはしませんでした。
否、むしろその方が良かったかも…。
直茂は龍造寺の家族には若干恨まれつつも…肥前国を立派に守ってくれました。
関ヶ原の戦い以降は完全に肥前=鍋島という体制になり、龍造寺は見る影を失います。
立花氏
立花氏は大友氏の一族であります。
筑前(福岡県)に立花城という城を持っていて、そこを拠点にしていた事から立花を名乗る様になりなした。
大友一族ですから、家臣団の中でも重要な位置を占めています。
しかし、戦国時代に入ってから立花鑑俊(あきとし、雪道の2代前)がクーデターを起しつつも…逆に鎮圧されてしまいました。
これにより、立花家は終了!のはずなんですが、立花は大友系の名族。
消してしまうにはモッタイナイ、って事で養子を立てて継続させます。
そこに登場したのが「立花道雪」です、、ジャーン。
(雪道も大友の血を引く武将です)
ところが、道雪には跡継ぎが出来なくて、ここでも養子を入れます。
やって来たのは高橋紹運!の息子である「立花宗茂」です、、ジャーン!!
(宗茂も大友の血を引く武将です)
その後、宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に入ってしまい改易を食らいますが、これほどのスーパースターを、山とか島に流してしまうにはあまりにもモッタイナイ…。
という事で、徳川氏にスカウトされて行きました。
大坂の陣で徳川に貢献した宗茂は、かつての領地であった福岡県にもどり、柳河藩の藩主に収まる事ができたのです。
よかったネ…。
鍋島氏
鍋島氏はもともと、肥前千葉氏の仕えていて肥前国(佐賀県)鍋島村に住んでいました。
鍋島の名は、この時の名残によるものです。
で、途中から龍造寺氏に仕えるようになり、鍋島村から本庄村に引っ越します。
(どっちにしても肥前国なんですが…)
戦国時代に入ると、1530年に田手畷の戦いで鍋島清房は主家龍造寺家のピンチを救います。
そこで、そのお礼として龍造寺家の娘さんを嫁にもらいました。
清房と嫁さんの間には男の子供が生まれます。
これが、あの鍋島直茂です。
(龍造寺隆信とは従兄弟になります)
鍋島直茂と龍造寺隆信は力を合わせ、二人三脚で龍造寺家を盛り立てます。
しかし、龍造寺隆信は沖田畷の戦で島津家に討ち殺されます。
一応、隆信には政家という後継ぎはいたんですが…虚弱体質だったので、その後の国政は鍋島直茂に任されました。
さらに、政家が息子の高房(5歳児)に家督を譲ると、直茂の存在感はますますパワーアップ。(小さ過ぎて直茂を頼るしかない…)
もう、肥前=鍋島って感じ。
それから、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いを経て1607年、龍造寺の本家は断絶。
そして、その後の肥前国は直茂の息子、勝茂が引き継いで佐賀藩の藩主に収まります。
(鍋島の佐賀藩は明治維新を迎えるまで、ずーっと存続しました)