織田信長は近畿地方を制圧し、次第に毛利の治める中国地方にも勢力を伸ばします。

次の標的は備前の備中高松城

毛利討伐の先鋒を務める秀吉は、おいしい条件で清水宗治をたぶらかします。

しかし、忠義の厚い宗治はこれぽっちも動揺しません。

その代わり、命を持って行かれてしまいましたが…。

湖上の切腹

1582年6月4日。

備中高松城城主、清水宗治は湖と化した城外で切腹をするに至りました。

 

豊臣秀吉の軍勢による水攻めを食らった備中高松城。

城の周りは湖状態となり、その中心にはぽつんと備中高松城が浮かんでいる。

 

そこから小舟に乗って出た清水宗治は、毛利・織田軍の見守る中湖上の切腹を果たします。

(よく、船が用意してありましたね…)

 

織田と毛利の難しい折衝を経て、結んだ和睦の代償は宗治の命でした。

 

「たとえ国を失おうとも、宗治の命だけは決して渡さない」

毛利輝元は秀吉の要求を固く突っぱねます。

 

しかし、宗治は「お国あってこその我が命。それが武士の定めと言うもの…」

と、ばかりに切腹を決断します。

 

秀吉は宗治の忠節に心打たれつつ、宗治の最期の瞬間を見つめます。

(これが戦国時代の切ないところです)

 

浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して

(武士の誇りを高松の苔に残して、今さらば…)

 

享年46歳。

潔く、武士の忠義を最後まで貫いた義将でした。

 

 

秀吉はなぜ宗治の命にこだわったのか?

近畿と中部を制圧した織田家は、次の標的を中国地方に定めます。

 

中国地方と言えば毛利家がでんと構えて陣取っています。

決してたやすい相手ではありません。

 

毛利攻略を任された秀吉は、西へ向かいます。

播磨の三木城、因幡の鳥取城を兵糧攻めで攻め落とし、宇喜多直家を調略で落とす。

(ちなみに、三木城と鳥取城は地獄のような兵糧攻めでした)

 

そうして、ついに毛利の最前線である備中高松城に辿り着きます。

 

備中高松城は攻略の難しい城でしたが、それ以上にイヤだったのは清水宗治の存在。

宗治の武勇はかねてより耳にしているし、家臣からの人望も厚い。

 

毛利を攻略するには、この宗治が大きな壁になると考えていました。

コイツさえいなければ中国攻めもずいぶん楽なのに…。

 

そして、もし出来る事なら生け捕りにして織田の家臣に引きずり込みたい。。

 

そこで、秀吉は宗治のもとに使いを送り寝返り工作を進めます。

「織田側に来れば、備中と備前の2カ国をあげるよ」と。

 

もちろん、そんな物には1ミリ足りとも動じない宗治

(やっぱりだめか~。だからこそ宗治が怖いんですけどね)

 

それならば、宗治の命だけでも頂戴したいところ…。

「こいつだけは生かして置くわけにはいかない、後で面倒なことになるぞ」

 

秀吉はそれほどまでに、宗治を恐れていました。

 

後に、秀吉は備中高松城を水攻めした際に和睦の条件を大幅にハードルを下げています。

ただ、それでも宗治の切腹だけは譲っていません。

 

確かに、本能寺の変が勃発して早く京都に帰りたい…という意味もありました。

しかし、備中攻略の本命は清水宗治だったのです。

 

宗治は国を2カ国あげてもおつりが来るぐらいの武将。

だから和睦交渉で多少おまけをしてでも、必ず落としておきたかったのです。