山城国一揆とは、戦で村を荒らす戦国大名を、農民たちの力で追い出した一揆のこと。
室町時代のお百姓さんって、かなりアグレッシブ。
普段から刀を持ち歩いているし、いざという時は決闘も厭わない。
その気になれば、大名とだって対決します。
農民や地侍の一揆って度々起こっていますが、「山城国一揆」はその代表例とされています。
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守護大名・畠山氏とバトル
山城国一揆が起こったのは1485年のこと。
その当時は応仁の乱の余波が続き、各大名同士で小競り合いが収まらない状態。
いや、それ以上に味方同士でも派閥争い等が起こって、内も外も乱れまくっていました。
そして、山城国の場合…ここでは守護大名の畠山氏が跡継ぎ問題でゴタゴタしています。
畠山の家督を巡って、畠山長政(養子)と畠山義就(息子)が大バトル。
この家督争いは、南山城(京都)の地域で戦を繰り広げました。
すると当然、地域のお百姓さんは迷惑に感じるのです。
自分たちの村で戦が起こる、しかも何度も繰り返して…
戦が始まると田んぼや畑はぐちゃぐちゃにされるし、作物をかっぱらっていくヤツもいるし、家に火を付けるヤツもいるし、避難してる間に家にドロボーが入ったり…
「ふざけんな!バカヤロー。戦やるなら広い野っぱらとか、河原でやってくれよ!」
村人たちは、戦の巻き沿いを食らって大迷惑を被っていました。
そして、ついに立ち上がります。
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大名を追放
応仁の乱以降は、戦続きでどこの国も内外に統制が乱れていました。
だから、その分農民や地侍が自立してやっていける様に努め、独自の力を付けていきます。
(自警団をつくったり、公家や寺社の土地を横取りしたり、村の規律を高めたり…)
すると…
「俺たちの暮らしを邪魔する大名なんか要らない、あっち行ってろ!村は俺らが治めていく」
南山城の村人は畠山の両氏に、退去を要求します。
それには「出て行かなければ、おまえらブッ飛ばすぞ」
という一言も付け加えてありました。
かくして、南山城の一揆勢力は守護大名・畠山氏の追放に成功します。
その後、南山城の村では「三十六人衆」という地元の侍が中心となり、自力で村の運営を行いました。
ところが…日が立つに連れ、地侍や農民たちの間で派閥争いや意見の対立が発生します。
そして、この葛藤がだんだんと収集が着かなくなり…村は崩壊。
結局は、1493年に南山城は幕府の支配を受ける事になります。
(8年間自治を行った事になりますね)
山城国一揆はちょっと残念な終わり方でしたが、農民パワーを見せつけるという意味ではとても良い事例でした。
もし、この一揆衆の中に毛利元就とか伊達稙宗みたいなリーダーシップを発揮できる地侍がいたら…新たな戦国大名の誕生につながったかも知れませんね。